今日もぽれぽれ

「ポレポレ」とはスワヒリ語でのんびり、ゆっくりという意味です♡

本当のラッキー

自分の身体について考えた時、自分が一番よく知っているようで、実は何もわかっていません。今、自分が口の中に入れて食べたものが、どのように食道を通り、胃に入って消化され大腸を通って身体から出ていくか、なんてことを、自分で意識してやっているひとなんてこの世にいません。

普通に生きているひとは誰しも、食べたいものを食べ、それが自分の身体に及ぼす影響などあまり気にせずに毎日を送っていると思います。私もそのひとりで、好き勝手に飲み食いしている人間でした。

そんな私が今回、大腸内視鏡検査をやることになったのですが、自覚症状があったわけでもなく、区の大腸検診(検便)で陽性反応が出たというだけで、要検査となってしまったのでした。

けれども、この年になると周囲にそういった経験者は多く、皆の話では、ポリープは見つかっても大腸ガンの疑いはなかったという人たちばかりだったので、自分もその部類だろうと、さして心配してはいませんでした。

むしろ、娘の結婚式という人生のハッピーイベント直前に、難聴になってしまった方が、私にとって大きな不安材料でした。私の場合、蝸牛型メニエルという難聴を繰り返す病気で、しかも、最近は治りが悪くなっていたため、結婚式までに治るのだろうかとかなり焦りました。しかし、それも、処方されたステロイドのおかげで(身体には全く合わなくて副作用で苦しみましたけれども)なんとか難聴も回復し、結婚式も無事に終わり、やれやれ、からの、今回の大腸内視鏡検査でした。

 

そして、その内視鏡検査では操作している医師から「全く問題なさそうですね〜」と言われたので、あらためて後日検査結果を聞きに病院に行くまでもないような気持ちになっていたので、予約していた診察日をうっかり忘れそうになったほどでした。

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これまで、私はどちらかというと家族の心配をする立場で、あまり心配してもらう立場ではありませんでした。古武道はやっているし、足腰鍛えるため毎日スクワットもやっているので、家族から私は頑丈な人というふうに思われていました。

そして案の定、医師から大腸に関してはお墨付きをいただいたので、私はすっかりウキウキ気分で、病院近くの人気ラーメン店『饗 くろ㐂(もてなし くろき)』で塩味玉そばを頂き、その後、人形町柳屋でたい焼きを食べながら桜並木を歩いてお花見気分で帰ったのでした。

ところが、夫は内心とても私のことを心配してくれていたようで、家に戻るなりものすごく嬉しそうに「本当によかったねえ」と言ったのでした。あら、そんなに心配していたんだと私の方が驚いてしまったくらい。

ひとは、毎日の「普通」にすっかりと慣れきってしまうものです。でも、この「普通」って、ものすごくありがたいことなんですよね。

ひとを好きになり、その人と結婚し、毎日の生活が「普通」になっていくことは、実はそれこそが本当のラッキー!

そして、毎日普通にご飯をいただき、普通に身体が使えること、それは、もうとてつもなく幸せなこと!

ありがとう、ありがとう!普通の日々!

 

 

 

母の覚えていること

3月は暖かい日があったかと思えば、また一気に真冬に戻ったりと桜が待ち遠しい日がずいぶんと長く続いたような気がします。

そんな中、娘の結婚式の日はピンポイントに晴れ、うららかな春のお天気に恵まれたおかげで、私の母も孫娘の結婚式に列席し記念写真にもおさまることが出来ました。それは、娘の晴れ姿と同じくらい私たち家族にとって喜ばしいことでした。

昨年9月以来寝たきりになっていた母は体重も一時26キロまで落ち込んでいたのですが、先日我が家で体重をはかってみたら29.6キロと3キロ以上も体重が増えていました。見た目はほとんど変わらず痩せこけているのですが、このところ少し歩けるようになってきたので、少し筋力がついて体重が増えたのかもしれません。

 

ところで、母はどういうひとかと言いますと、母を知るひとは皆一様に「ものすごく聡明でしっかりして几帳面な人」と言います。何か頼みごとをすれば、とにかくきっちりと確実にやってくれるので、私たち家族だけでなく母を知るひと達からも、大変頼りにされているひとでした。

そういう母でしたが、さすがに寄る年波にはかないません。

この4月10日で満90歳ですが、最近は身体もいささか不自由になってきたのと、少しまだら認知症が始まって来ているのとで、これまでのよく出来た母とはちょっと違ってきました。

けれども、以前までの母は、どちらかというと人間として面白みに欠けていたのですが、最近の母の言動は少しおかしくてよく言えば人間味あふれてきた感じがします。

先日の結婚式でも、氷川神社の畳の間で、親族が畳の端に沿って2列に整列し、両家の家長が親族紹介をし終わった後のこと、巫女さんのお迎えが来るまでの一同沈黙し緊張した状態の中、突然母が割って口を開きました。

「なんだ、私より年寄りいないじゃないの。私なんてもう90よ」

その一言で皆が笑い出し、とてもなごやかな空気に包まれました。

その後も、親族盃の儀 (しんぞくはいのぎ)で、 両家の親族が固めの盃を交わす時、厳粛な本殿に響き渡ったのは、またしても母の奇声「かっらーい!」でした(笑)

最近、熱いものの、冷たいものも、辛いものを全く口に出来なくなっていた母が、まさかのお神酒を口にしたものだから、その日本酒が舌を刺激したようでした。それでも以前の母だったら人前で大きな声で恥をかくようなことを口にしたりしなかったのですが、もはや子供のように純粋で開けっぴろげで、なんだか私が言うのも変なのですが、ものすごく可愛いのです。

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母の面白おかしい話を兄にしたら、「いいじゃないか、お前、それこそ『ぽれぽれ漫画』に描けるじゃないか!お母さんの楽しいネタを漫画にしたらいいよ」と、意外な反応が。

おそらく、今日の漫画のようなことはきっとこの先もいっぱいあることでしょう。そういう時に、どれだけ母のことを楽しく愉快に感じることができるか、それが私が「老い」というものを考える上でとても大切な鍵なのではないか、ふとそう感じました。

 

大腸内視鏡検査前

区の検診で大腸検査に陽性反応が出てしまうと、もれなく大腸内視鏡検査を受けなくてはならないということ、ご存知でしたか?

私は今年始めに、いやな結果を知らされて、それじゃあ3月の結婚式前に一気にカタをつけようと病院に検査予約をしたのですが、ちょうどその頃、体調をくずして難聴になってしまいました(漫画にも書きましたが)。

そして、その時に処方されたステロイドのお薬で今度は胃までおかしくなってしまい、予約してあった内視鏡検査を前日キャンセルし、結婚式後に延期してもらいました。

というわけで、娘の結婚式も無事に終わり、やれやれと一息ついたところで、大腸内視鏡検査という素敵すぎる予定が待ち受けていたのでした。

実は、これまで一度も検査で陽性になったことがなかったので、私は今回大腸内視鏡検査初体験でした。いえーい!ではないですね。とほほ・・・

周囲の声を聞くと、だいたい、ほとんどのひとがなんともないということなので、検査に対して不安はなかったのですが、大量の下剤を飲まなくてはいけないということに対して、むしろそっちの方が恐怖でした。なんせ、日頃私は水分をほとんど摂らなくてもいいひとだったからです。

ナースの説明をきくと、朝起き抜けにコップ2杯の水を飲み、その後、吐き気どめをまたコップ1杯の水で飲み、下剤を1リットル飲み、その後500ccのお水にお薬を入れて飲むということで、「ええー!(涙)」となっていたら、昔はもっと飲まされたらしく、今はこれでも下剤の量が減ったそうです。

それでも、下剤の効果がきちんと表れなければ、さらに追加して500ccの下剤を飲み、また水を飲みと延々と水分摂取が続くということなので、ナースの説明に血の気が引いてきました。

美味しいビールやワインならおかわり大歓迎ですけれども、下剤のおかわりなんて絶対にいやだと思いました。

すると、ネットで、ようはなるべく出すものを作らなければいいと書いてありました。なるほど!って、思ったので、検査日の前々日あたりから、そのことを意識して食事をとるよう心がけました。しかし、これまで長いこと人生やってきて、お腹にたまらないように出すことを意識して食べるなんてこと一度もしたことがなく、改めて考えると、健康に慢心して、食べることばかり考えて生きてきたことを深く反省させられました。

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しかし、この大腸内視鏡検査の下剤の作り方の説明をナースさんは毎日いやっていうほどしているので、マシンガンのような速さで説明するんですよ。聞き漏らしてはいけないと必死で聞くにしても、こういった説明を私よりご年配の方が聞いて何種類も薬剤を持ち帰り、自宅で下剤をつくって、飲む量と間隔をはかって飲みながら、トイレでその効果をチェックなんてできるのだろうか?と思ってしまいました。

もちろん、病院でやるひともいるのだと思いますが、医師は私なら自宅で対処できると判断したのでしょうか?これって、この人は見た目大丈夫と太鼓判押したということで、名誉なこと?まさかね(笑)

夫が何年かまえに、同じように陽性が出た時は、不安そうな夫に病院の検査に付き添ってあげました。結果はなんともなかったのですけれどもね。私は長い時間、待合室でずっと爆睡してました。

今回も、待合室の長椅子に、50代のご夫婦が座っておりました。どう見ても、奥様は付き添いって感じでした。男性は怖がりさんが多いですよね。女性は産婦人科の検査でいやな思いに慣れているから、大腸内視鏡検査もひとりで行く人の方が多いと思いますが、そんなことはない?

そうそう、今回の検査は意識が朦朧とする薬を注射されたなって思ったら、あっという間に終わりました。内視鏡を引っこ抜きながら「なんともないみたいですね〜」と医師が言ってたので、無駄に医療費を使わせてしまう検査になってしまったようです。やれやれ。。。

 

 

 

 

娘の結婚式(後編)

まったく、いつまで結婚式の話をひっぱるんだと思われてしまいますよね。でも、この結婚式を持って、この娘の子育て卒業式なので、どうか勘弁してくださいね。

披露宴会場の建物を入ってすぐのところに、新郎新婦のイラストのウェルカムボードを飾らせてもらいました。それは、私から子供達へのプレゼントでした。私のブログを知っている人なら、このウェルカムボードの作者に気づいたことでしょう。

茗荷谷駅すぐ近くにある嘉ノ雅 茗渓館という式場は、1日一組しか結婚式を受けないらしく、だからなのか、とてもアットホームで落ち着いた式場でした。他の新郎新婦と廊下やロビーですれ違うなんてことも起こりうるはずもなく、館内のスタッフ全員がこの結婚披露宴のために全力でサポートしてくれました。担当のブライダルプランナーさんもずっと最後の結婚式まで一緒。娘達は予約した時から当日まで色々とお世話になったようで、本当に感謝です。

最近の結婚式は、新郎新婦の手作り感を演出するのが流行りなのでしょうか?

娘達は、結婚式というよりもプレゼンさながらにこの日まで用意周到に準備して、1週間前から小物の搬入をし、前日も残りの制作物の搬入と設営にいったりと、まあ忙しそうでした。親の出る幕は当日までまったくありません。娘の様子を伺うと、もう完全に仕事モードでした。

その理由は披露宴会場のテーブルに着席した時にわかりました。山型に折られた席札をひっくり返してみると、そこには一人ひとりに感謝の言葉が手書きで書かれていました。私宛に書かれたコメントの中に「披露宴なんてムリしてやらなくてもいいんじゃない?とお母さんは言ったけれど、何よりもお母さんに私の友達や仕事ぶりやここまでの成長を見せたくてこの場を創ってきました。」とあったので、そうなのか、この日は子供達の発表会の場でもあったことに気づかされました。

そういうふうに結婚式を考えてみたことはなかったので、そのコメントを読んだら、これから始まる披露宴がワクワクとしてきました。

また、受付では、新郎新婦が作成した自己紹介冊子が配られ、テーブルに着席してからのひととき、それを読みながら披露宴の始まりを待つという演出になっていました。実はその冊子に、私の4コマ漫画をのせたいとある日娘からメールで言われ、見開きページで4つの漫画を掲載したいと作成データの解像度ピクセル数まで指定して来たのでした。そして、会場のあちこちで4コマ漫画のページをひろげて読んでいる人たちが末席から見えると、なんだか嬉しいような恥ずかしいような気持ちになりました。

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娘の言葉どおり、披露宴にお越しいただいた素敵なみなさまに、これまでいろんな面で支えられて来たのだなあ、そして私の知らないところで、こんなにも立派に成長していたのだなあと感慨無量でした。

娘の冊子の「OUR ROAD」のOURには、私たちも含まれていたんですね。

大変な日もいっぱいあったけれども、子供を産んで、育てて、本当によかったと思いました。そして、この「子育て卒業式」に夫と二人で娘を見送れたことの喜びをしみじみとかみしめました。

私、幸せです!まちがいなく!

今、子育て奮闘している、お父さん、お母さんもがんばって!

 

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新郎新婦と娘の子育て卒業した私(右)

 

 

 

娘の結婚式(前編)

娘の結婚式当日は、何日か前の寒い日とは打って変わり、よく晴れて暖かな日和となりました。なんという幸運な若者たちでしょう。

夫より一足先に式場について、私は着付けをして頂きました。すでにお目にかかっている新郎のお母様も一緒。ご夫婦揃ってテニスをなさっている新郎のお母様は大きなナイキのスポーツバッグでいらっしゃり、テニスの遠征に行くような感じで登場。

着付けが終わり、氷川神社へタクシーで移動するとき、すぐそばにある娘の卒業した高校の前を通りました。11年前の同じ頃、この学校で卒業する娘を見届け、そして今日は私の子育ての卒業式なんだなと思いました。無事に卒業できるでしょうか?

氷川神社に着くと、そこにはすでに私の兄夫婦と母が先に来てました。

 

昨年の9月から腰が痛いといって寝込んでいた母は、それ以来ずっと寝たきりの生活になり、食も細く体重は26キロまで落ち込んでしまったのですが、今年の2月末家からすぐ近所にある美容室まで歩行器を使って歩いていき、なんと髪を染めてカットしてきたのです!たまたま家を留守にしていた兄嫁が戻ると、母の真っ白だった髪の毛が真っ黒になってきれいにセットされていたので、腰を抜かすほど驚き、私に連絡して来ました。私もその後実家に行くと、母はいつものパジャマ姿でなく、ちゃんと着替えてお布団の上に座っているではありませんか。髪の毛も驚いたけれど、そのことにもかなり驚かされました。そして、私に「髪の毛すごくきれいになったでしょ?驚いた?」と笑いながら言ったのでした。まもなく4月10日で満90歳になる母に、こんなに人を驚かせるお茶目なパワーが残っていたのかと思うと不思議でなりませんでした。

「それなら結婚式にも出られるわね」と私が言うと、「何を着ていこうかしらね」と、とても前向きになり、そして、この結婚式当日を迎えたのでした。

また、今ご主人の転勤でタイに住んでいる姪も子供達と一緒にちょうどタイミングよく一時帰国していたので、お式に列席できたので、この日は私にとって二重三重の喜びとなりました。

そして、もうひとつ嬉しいことには、小さい時から娘のことをよく知っている私の友人が、遠いところ午前中から、娘の晴れ姿を見に駆けつけてくれたことです。ありがたくて涙が出そうになりました。感謝、感謝です。

 

さて、私たちが本殿で席につき待っていると雅楽とともに新郎新婦がやって来ました。お式前に花嫁姿を見せていただけなかったので、その日初めて見る娘の花嫁姿が、荘厳な雅楽とあいまって、それはまばゆく美しかったです。

 

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そうそう、娘の粋なはからいで、お式が始まる前に、神社の鳥居のところで、夫と私の記念写真を撮って頂きました。というのも、結婚式をあげていなかった私たちは、二人揃っての正装姿の記念写真がありませんでした。それを知ってか、娘がこの日カメラマンに自分たちだけではく、私たち夫婦の写真も別立てで撮ってあげてほしいとお願いしてあったのでした。

親族紹介が始まる直前でしたが、私たちは娘の心のこもったプレゼントを受けることにして、何枚も写真を撮って頂きました。ありがとう!

 

息子のナオキは、社会人だというのにきちんとした礼服と靴を持っていなかったので、私と夫と娘の三人から教育的指導が入ったため、直前になって慌てて一式揃えて買ってきました。しかもスリーピース!ところがベストを着ているという安心感で、スボンからシャツがまくれ出ていたのを、私に何度も注意される羽目に(笑)着慣れないと、自分の身だしなみチェックができないので仕方ないのですが。

私も帯がすぐに跳ね上がってしまっていたのを何度か直してもらっていたので、ひとのことは言えません(笑)

ひとり、夫のモーニング姿はとても決まってました。やはり社会人としての貫禄もあってか、初めて着たとは思えないほど似合っていました。新郎のお父様もとてもお似合いでした。ですが、黒留袖の女性陣も両家ともに(こちらは私ひとりでしたが)かなりいけていたのではないかと思います。

しかし夫は、着物の下にタオルで補正して貫禄ついた私を見て、まるで旅館の女将のようだって言ってましたけれど、それは和装の女性といったら旅館の女将しか知らない夫の想像力の欠如だと思います(笑)

 

でも、やっぱり一番最高に似合っていたのは、新郎新婦のお衣装です。

私は二人の試着時におつきあいさせてもらったので、お衣装自体は見ていたのですが、その時とは見違えるほど別人になっていました。凛々しい紋付袴姿の新郎と、あんみつ姫のようにゴージャスな相良刺繍の打掛姿の新婦。

神前結婚式にしたいというのは新郎の希望だったのですが、私たち家族も皆、氷川神社での神前結婚式は本当に大正解だったと喜びの一日でした。

「漫画がなかなか結婚式当日にならないんだね」 by 娘

娘から、「ブログがなかなか結婚式当日にならないんだね」と言われました。

娘の結婚が決まった後も、まだ周囲にオープンにしていないので、ブログに結婚のことを載せてはダメと言われ、これもあれも描けないとかモヤモヤした気持ちでおりました。

さて、オープンになり、無事に結婚式を終え、色々とネタはあると思ったのだけれど、まだ頭の中で整理できていなくて、何を漫画にしていいのやらと悩みます。結婚式前夜までのことは、描けたんですけどね。

とりあえず、娘が登場する漫画の総集編を作ってみることにしました。

これまでブログにアップした順序になっています。

私の振り返りになってしまいますが、私自身もこれをひとつひとつ見ながら、頭の中を整理して、嫁ぐ日の娘の漫画をどんなふうにしたいか考えてみようと思います。

 

 

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母と娘の思い出2

続きです。

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中学受験をしていないので、子供にとって初めての受験が高校受験でした。

その受験のハードルを娘が自ら最高レベルまで上げてしまったので、親としては気が気でありません。国立高校の合格者発表の掲示なんて、男子は多いけれど女子なんてほんの1クラス分。大学受験と違って浪人して受け直すなんてことはできないのだから、ものすごいプレッシャーでした。当時は、絶賛母子家庭時代でしたので、娘の親思いもわかるけれども、落ちたら私立のすべり止め高校に行ってもいいんだからねと言って受験させたのですが、絶対に受かると言い張るので、娘の迷いのない自信を信じて受験させたのでした。

合格発表を後ろから見ていて娘の飛び跳ねている姿で合格を知った時、なんと校庭にあったバスケットゴールの下に塾長がいるではないですか。私が「合格発表はもう見たんですよね?」とお聞きすると、先生は軽く頷いて目を細めていらっしゃいました。「お母さん、合格した!」と私のもとに走って来た娘に塾長のことを教えると、娘も塾長に駆け寄り二人して合格の喜びを分かち合っていました。すると塾長が「では、また高校でもよろしく」とおっしゃったので、「え?この塾、6年制だったんですか?」と聞くと「そうですよ。高校受験や大学受験が目標ではなく、うちの塾は最高学府の大学で学問できる力を身につけるための塾です。ご存知なかったのですか?」と笑顔で語りました。

娘は「塾大好き!高校でも塾に絶対に行く!」と言ったので、親としてはもうこの塾に子供をあずけるしかないなと思ったのでした。私もこの塾の大ファンになっていたからです。なぜなら、この塾長先生が私たち親子に色々と便宜をはかってくださったからです。

というのは、国立高校の受験科目は都立高校の試験科目とは全く異なり、その入試のレベルは中学とは思えない難易度の高いものでした。ですので、国立受験コースというのを一般の授業とはまた別にお金を払って取らないといけなかったのです。

母子家庭の私に、普通の授業料にさらに授業料を上乗せして支払うなんてとても無理でした。中学2年の2学期に、私はこの塾長宛てにメールでお手紙を出したのです。

「うちの経済力ではとても国立受験コースのお金を支払えません。貴塾には高校3年次に特待生制度がありますが、中学の3年次にも特待生制度を設けて学費の免除をしてください」と。

すると、塾長が面談時に「少子化が進み、我が塾も非常に経営難で苦しい財政でやっておりますが、今回のお手紙のご提案について塾内で協議し、お子さんの将来のために、2年最終の学力テストの順位で特待生制度(1番:全額、と2番:半額)を設けることにしました」と異例の早さで答えを出してくれたのでした。そして、2番になった娘はその特待生制度を使って授業料が半額ですんだのでした。

しかし、今から考えてみれば、よくもまあそんな図々しいお願いができたものだなと思ったのですが、やはり自分のためというよりも、娘の将来のためを思ってだからこそ、できたのではないかと思います。まあ、夫はそうでなくても図々しいと言ってますが。。(笑)

 

高校に上がると、それまでの無駄に厳しい校則のある区立中学とは180度異なり、制服ない、上履きない、お掃除やらない、のないないづくしの自由な校風でした。何もかも生徒の自主性を重んじるところがあったので、生徒は逆にしっかりとしていたのかもしれません。ある時、七夕はクラス女子全員で浴衣を着ていくといくことになったというのです。当時、浴衣を持っていなかったので、夫と一緒に渋谷の観劇後デパートに浴衣を見に行きました。身長148センチの娘が着れる素敵な浴衣は全くなく、子供用の浴衣売場のところにあった藍染にトンボの模様があるのが唯一粋かしらねと言って、浴衣と帯とかなり高価でしたが、夫にお金を出してもらって買ったのでした。朝の慌ただしい時間帯に、娘の浴衣を着付けてバタバタでしたが、浴衣に普段履いている靴とバッグという奇妙な格好で登校したのでした。家に戻ると、情報をキャッチした男の先生までが浴衣で娘のクラスに登場したというのだから、どこまで自由な高校なんだかと思いました。

 

大学に入ると、娘はESSという英語サークルに入ったのですが、ここでは厳しい先輩の指導でそれまで緩く生きて来た娘はかなり精神的にも鍛えられたのではないかと思います。入ってすぐにサークルおそろいのユニフォームを作ったのですが、それぞれ袖のところに好きな言葉を入れられ、娘の袖には「目指せ!150センチ」とあったので、大笑いしてしまいました。とても低い目標だったのにもかかわらず、いまだに到達できていません。

娘は、遠征やらイベントやらで、連日夜遅い帰宅で戻って睡眠1〜2時間でまたすぐに起床して出かけるなんてことが日常茶飯事でした。娘の目覚ましはかなり前倒しした時間設定で鳴るのですけれども、これが全く起きないのです。隣の部屋の私の方が耳ざといため娘の目覚ましが鳴り響いているのを止めに入ると、起きるという毎日。しかし、本当にやばいとなると、前日にどんなに遅くに帰ってきても、私に朝のモーニングコールを頼むのでした。私までが自分の睡眠時間を削って5時起きさせられ、本当にいい迷惑な話でしたが、寝坊で大騒ぎになることもよくあったので、私も気を引き締めて起こしました。

 

社会人になってからは、互いに好きなミスチルのコンサートに行くようになりました。このチケットはなかなか当たらない。やっとの思いで当選して、娘と一緒に行けることを楽しみに会場に行くと、「私たち、赤の他人でいましょ」みたいなことを言われて、「おい、このチケットどんだけ大変な思いしてとってるのか知ってるのかー!」みないな気持ちになるところを、100歩譲って大人しく他人のふりしてライブに参加しているわけです。

 

こうやって、思い出を振り返ってみて気づいたのですが、それほど大事とは思えない日常にこそ、家族のドラマがあるのですね。私が描いてる漫画のシーンなんて、どれもどうでもいいようなこと、そのどうでもいいようなことが、私の記憶の箱で温められ続けているのかとと思うと、とても不思議な気持ちになります。

仕事漬けで家族と共にする時間がもてないひとがいると思います。特別なことをしなくても、家族のつながりはできてくるもので、今一度日常を振り返ってみるといいと思います。私も父親に上手に飛ぶ紙ヒコーキの作り方を教えてもらって、スッと美しく飛んだ時の感動とかをいまだに覚えています。そういうたわいない時間の積み重ねが、親と子供の関係性を深いものにしていくのかなって、この歳になって思うようになりました。

 

おそらく、これらの漫画に描いたシーンはどれも家族はあまり覚えていないのではないかと思います。私自身もこれを描きたいって強く思って描いたわけでもなく、ふっと思い出したシーンを描いてます。

これを読んだ方も、読みながら似たような経験を親側、もしくは子供側でしているかもしれません。その一瞬チラッと脳裏に浮かんだシーンをこの先も大事に記憶ポケットにしまっておきたいですよね。