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「ポレポレ」とはスワヒリ語でのんびり、ゆっくりという意味です♡

母子家庭時代 「保育所探しと仕事探し」

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BGM:いつか晴れた日に山下達郎)なんちゃって

 

母子家庭になるということは、仕事をしなくてはなりません。上の娘は小学校でしたが、下の息子は幼稚園の年中でしたので、まず保育時間の長い保育園にあずけなくてはなりませんでした。

早速、地元区役所の児童保育課窓口に相談に行きました。対応してくれたのは、40代くらいのベテランの女性でした。私は自分の今の実情を話し、パートではなくフルタイムで求職活動中なので、あずかり時間が長い延長保育のある区立の認可保育園の入園を希望していることを伝えました。その際、新年度の募集ではなく、途中入園ですぐにでも入りたいと言ったところ、1月からほんのわずか空きが出るかもしれないということで、その空きが出る保育園の中で第一希望から第三希望まで書いて書類を提出するように言われました。

家に戻って保育園の資料を読むと、7時までの延長保育のある保育園はたったのひとつしかありませんでした。あとは6時までだったのですが、希望を書いて提出ということだったので、しかたがなく第二まで書いて提出し、後は結果待ちをするしかありませんでした。

保育園の相談の後、本格的に求職活動を始めたのですが、驚いたことにフルタイムの女性の求人を見てみると35歳までがほとんどで、38歳の私がまともな企業に中途で受入れてもらえるということは奇跡でも起きない限りないように思えました。それでも、それはもしかしたら目安のラインかもしれないと楽観的希望を持ち、あちこちに履歴書を書いて送りましたが、ことごとく「残念ながら」の通知が来たのでした。

友達に相談したら、こういうときは片っ端からコネを利用するしかないと言われ、少しでも繋がりのあるところを頼りに電話しまくりました。すると、面識はないのですけれども、友人の知人の先輩にあたる方が相談にのってくださるというので会いに行きました。

その方は、私の履歴書を眺めて、

「ひどいね、これは。あのさ、君の年で、結婚前にこんなに転職していたら、雇う側に印象悪くするだけだよ。大学出て会社入って腰掛けで辞めましたっていう方がまだましだよ。履歴詐称したら?」と言われました。

私はやりたいデザインの仕事のスキルアップのために転職したし、実際に転職先ではその当時で1回のボーナス100万も取ったほど頑張っていたのに、仕事内容など全く質問なしでした。ところが、2、3日したら、その方から電話があり、某企業の人事担当者が会ってくれるそうだから行ってみるといいと言われました。とても感じの悪い言い方をするひとだったけれども、お声をかけてくださったことに感謝して面接に行ってみると、人事と経理の方がふたりいる会議室に通されました。

「今から離婚して母子家庭になるの?ふーん、経済学部経営学科卒なんだ。なのに、なんでまたデザイン会社なんて入ったの?普通は事務職につくでしょ。」

「いえ、デザインがやりたかったので」

「でも、うちでは経理が出来る人が欲しいんだよね。君さ、経営学科で簿記とかの資格とってないの?資格ないんだったら、今から学校入って簿記を勉強し、資格を取りなさい」

「あの、離婚してこれから子供ふたりを育てていかなくてはいけないから仕事を探しているんです。今から授業料を払って簿記を習えということは、その資格を取るまで、私と子供はどうやって生活したらよろしいんですか?」

「そんなの、親がいるんでしょ。面倒みてもらえばいいじゃない。正直、子供かかえてじゃどっちみち仕事なんて出来ないよ。親にみてもらえばいいんだ。」

 

この人達はダメだと思いました。最初に相談にのってくれた人と同じタイプの人間だって思いました。

 

そんな求職活動をしている時に、保育園が決まりました。ところが、決まった保育園は第二希望の保育時間が6時までのところでした。

ちょうどその頃、友達が南青山にあるデザイン会社で経理をしていた女性が出産のために退職するのでその後がまにどうかという話が転がりこみ、私はそこに唯一の希望の光を感じていました。けれども、先方の社長さんが、多忙なため、私との面接を業務が終わる年末にして欲しいと言われて待っている状態でした。

頼りはその会社しかないと思っていたのですけれども、7時までの延長保育でないとその会社の通勤は難しいと思いました。

そこで、既に保育園に入園しているお母さんに相談すると

「ばかねえ、そんな第二希望の保育園の名前を書くからよ。第一しかなければ、第二希望を書いてはダメなのよ」

と言われ、最初に教えてくれたらよかったのにと、ひどく落ち込みました。が、いやいや、落ち込んでいられない!交渉するしかない!と直談判に区役所に通知を持って行きました。多分、すごい血相だったと思います。

 

担当の方に、私は言いました。

「求職活動では年齢で厳しいものがあり、ことごとくはねられました。今唯一希望の光が持てる会社の面接待ちだけれども、その会社はデザイン事務所なので始まりが遅いから勤務時間は6時までなので、退社してからすぐに駆けつけても子供の引き取りは7時になってしまうんです。第二希望の保育園だったら、今決まりそうな会社も、また断られます!お願いです!何がなんでも第一希望の保育園に入れてください!」

すると、担当の女性が、児童保育課の一番上席に座っている課長を見てから「今上司に相談するので待っててくれる?」と言い、私はその場でしばらく待たされることになりました。私の視線の先にこちらをチラチラ見ながら話をしている様子が見えました。しばらくたってから担当者が私の前に座ると言いました。

「あなたの事情はよくわかりましたので、もう定員いっぱいだけど、7時までの延長保育の○○保育園への入園を課長が例外で認めて下さいました。よかったわね!けれども、定員枠を越えているので、おそらくあなたのお子さんのロッカーはご用意出来ないかもしれません。それでも大丈夫?」

「そんな、ロッカーなんていりません!洋服入れるカゴさえあれば、うちの子はそういうことを気にしません!ありがとうございます!」と私は半泣きで感謝の言葉を言いました。

そこに至るまでに、この担当者が我が家のアパートまで実際に調査にやって来て、その時、私の実情をとても理解して下さったことが、保育園入園の決め手になったのだと思います。当時は待機児童のポイント制というのはなかったので、人情に訴えるというのは大きなアドバンテージになったかと思います。そもそも、母子家庭も今よりも稀な時代でしたから。

 

そうして保育園も決まり、年末のデザイン会社の面接には、心に余裕を持って対応することができました。南青山にある大きなビルの1室にあるデザイン事務所は、10畳くらいのスペースとユニットトイレバスがついた小さな会社でした。面接してくれた社長さんはだいぶ遅刻をしてやって来ました。

「ごめんごめん。昨日が忘年会だったので、つい飲みすぎちゃって。履歴書みたけど、素晴らしい経歴で、僕よりすごいんじゃないの」と、笑いながら言いました。話の流れで、採用になりそうだなと実感でき、私はくつろいだ気持ちで面接出来ました。

翌日、年明けの5日から来てくれる?と電話がかかりました。感謝の気持ちでお返事をさせて頂き、大急ぎで区役所の担当者に電話で報告すると、年明けから「ならし保育」をして、少しずつ保育時間を長くしていきましょうと言い、電話の向こうの声もとても嬉しそうでした。

あちこちぶつかりながら前に進む危なっかしい母子家庭時代の本番がスタートしました。