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今日もぽれぽれ

「ポレポレ」とはスワヒリ語でのんびり、ゆっくりという意味です♡

母と娘の思い出2

続きです。

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中学受験をしていないので、子供にとって初めての受験が高校受験でした。

その受験のハードルを娘が自ら最高レベルまで上げてしまったので、親としては気が気でありません。国立高校の合格者発表の掲示なんて、男子は多いけれど女子なんてほんの1クラス分。大学受験と違って浪人して受け直すなんてことはできないのだから、ものすごいプレッシャーでした。当時は、絶賛母子家庭時代でしたので、娘の親思いもわかるけれども、落ちたら私立のすべり止め高校に行ってもいいんだからねと言って受験させたのですが、絶対に受かると言い張るので、娘の迷いのない自信を信じて受験させたのでした。

合格発表を後ろから見ていて娘の飛び跳ねている姿で合格を知った時、なんと校庭にあったバスケットゴールの下に塾長がいるではないですか。私が「合格発表はもう見たんですよね?」とお聞きすると、先生は軽く頷いて目を細めていらっしゃいました。「お母さん、合格した!」と私のもとに走って来た娘に塾長のことを教えると、娘も塾長に駆け寄り二人して合格の喜びを分かち合っていました。すると塾長が「では、また高校でもよろしく」とおっしゃったので、「え?この塾、6年制だったんですか?」と聞くと「そうですよ。高校受験や大学受験が目標ではなく、うちの塾は最高学府の大学で学問できる力を身につけるための塾です。ご存知なかったのですか?」と笑顔で語りました。

娘は「塾大好き!高校でも塾に絶対に行く!」と言ったので、親としてはもうこの塾に子供をあずけるしかないなと思ったのでした。私もこの塾の大ファンになっていたからです。なぜなら、この塾長先生が私たち親子に色々と便宜をはかってくださったからです。

というのは、国立高校の受験科目は都立高校の試験科目とは全く異なり、その入試のレベルは中学とは思えない難易度の高いものでした。ですので、国立受験コースというのを一般の授業とはまた別にお金を払って取らないといけなかったのです。

母子家庭の私に、普通の授業料にさらに授業料を上乗せして支払うなんてとても無理でした。中学2年の2学期に、私はこの塾長宛てにメールでお手紙を出したのです。

「うちの経済力ではとても国立受験コースのお金を支払えません。貴塾には高校3年次に特待生制度がありますが、中学の3年次にも特待生制度を設けて学費の免除をしてください」と。

すると、塾長が面談時に「少子化が進み、我が塾も非常に経営難で苦しい財政でやっておりますが、今回のお手紙のご提案について塾内で協議し、お子さんの将来のために、2年最終の学力テストの順位で特待生制度(1番:全額、と2番:半額)を設けることにしました」と異例の早さで答えを出してくれたのでした。そして、2番になった娘はその特待生制度を使って授業料が半額ですんだのでした。

しかし、今から考えてみれば、よくもまあそんな図々しいお願いができたものだなと思ったのですが、やはり自分のためというよりも、娘の将来のためを思ってだからこそ、できたのではないかと思います。まあ、夫はそうでなくても図々しいと言ってますが。。(笑)

 

高校に上がると、それまでの無駄に厳しい校則のある区立中学とは180度異なり、制服ない、上履きない、お掃除やらない、のないないづくしの自由な校風でした。何もかも生徒の自主性を重んじるところがあったので、生徒は逆にしっかりとしていたのかもしれません。ある時、七夕はクラス女子全員で浴衣を着ていくといくことになったというのです。当時、浴衣を持っていなかったので、夫と一緒に渋谷の観劇後デパートに浴衣を見に行きました。身長148センチの娘が着れる素敵な浴衣は全くなく、子供用の浴衣売場のところにあった藍染にトンボの模様があるのが唯一粋かしらねと言って、浴衣と帯とかなり高価でしたが、夫にお金を出してもらって買ったのでした。朝の慌ただしい時間帯に、娘の浴衣を着付けてバタバタでしたが、浴衣に普段履いている靴とバッグという奇妙な格好で登校したのでした。家に戻ると、情報をキャッチした男の先生までが浴衣で娘のクラスに登場したというのだから、どこまで自由な高校なんだかと思いました。

 

大学に入ると、娘はESSという英語サークルに入ったのですが、ここでは厳しい先輩の指導でそれまで緩く生きて来た娘はかなり精神的にも鍛えられたのではないかと思います。入ってすぐにサークルおそろいのユニフォームを作ったのですが、それぞれ袖のところに好きな言葉を入れられ、娘の袖には「目指せ!150センチ」とあったので、大笑いしてしまいました。とても低い目標だったのにもかかわらず、いまだに到達できていません。

娘は、遠征やらイベントやらで、連日夜遅い帰宅で戻って睡眠1〜2時間でまたすぐに起床して出かけるなんてことが日常茶飯事でした。娘の目覚ましはかなり前倒しした時間設定で鳴るのですけれども、これが全く起きないのです。隣の部屋の私の方が耳ざといため娘の目覚ましが鳴り響いているのを止めに入ると、起きるという毎日。しかし、本当にやばいとなると、前日にどんなに遅くに帰ってきても、私に朝のモーニングコールを頼むのでした。私までが自分の睡眠時間を削って5時起きさせられ、本当にいい迷惑な話でしたが、寝坊で大騒ぎになることもよくあったので、私も気を引き締めて起こしました。

 

社会人になってからは、互いに好きなミスチルのコンサートに行くようになりました。このチケットはなかなか当たらない。やっとの思いで当選して、娘と一緒に行けることを楽しみに会場に行くと、「私たち、赤の他人でいましょ」みたいなことを言われて、「おい、このチケットどんだけ大変な思いしてとってるのか知ってるのかー!」みないな気持ちになるところを、100歩譲って大人しく他人のふりしてライブに参加しているわけです。

 

こうやって、思い出を振り返ってみて気づいたのですが、それほど大事とは思えない日常にこそ、家族のドラマがあるのですね。私が描いてる漫画のシーンなんて、どれもどうでもいいようなこと、そのどうでもいいようなことが、私の記憶の箱で温められ続けているのかとと思うと、とても不思議な気持ちになります。

仕事漬けで家族と共にする時間がもてないひとがいると思います。特別なことをしなくても、家族のつながりはできてくるもので、今一度日常を振り返ってみるといいと思います。私も父親に上手に飛ぶ紙ヒコーキの作り方を教えてもらって、スッと美しく飛んだ時の感動とかをいまだに覚えています。そういうたわいない時間の積み重ねが、親と子供の関係性を深いものにしていくのかなって、この歳になって思うようになりました。

 

おそらく、これらの漫画に描いたシーンはどれも家族はあまり覚えていないのではないかと思います。私自身もこれを描きたいって強く思って描いたわけでもなく、ふっと思い出したシーンを描いてます。

これを読んだ方も、読みながら似たような経験を親側、もしくは子供側でしているかもしれません。その一瞬チラッと脳裏に浮かんだシーンをこの先も大事に記憶ポケットにしまっておきたいですよね。