今日もぽれぽれ

「ポレポレ」とはスワヒリ語でのんびり、ゆっくりという意味です♡

油断も隙もあらへん!

奥様の秘書って、いったいどんな仕事?と最初はドキドキしたのですが、思ったより普通で単純でした。

1.先生、お客様へのお茶出し

2.写真整理

3.お礼状の宛名代筆

4.先生の鉛筆削り

5.奥様が思いついたことを一緒にやる

しかし、この5番はクセもので、奥様のひらめきで、突然お片付けやら、買物やら、お料理など幅広い(笑)

 

写真整理では、共同通信社から送られて来た先生のお写真を時系列に整理してと言われたのだけれども、どれも同じような髪型服装で、しかも同じ国会という場所なので、正直違いがわからない。だいたい70歳越えたひとのお顔の変化なんて、家族でもなかなかわからないよね。背景に季節感でもあればと思うけれど、薄暗い国会の中なのでそんなものはありません。幸い、奥様も適当なひとだったので、私が適当にファイリングしても文句は言わないので助かりました。

そして、ほとんど同じと思える顔写真を見ながら、「あら、このカメラマンはへたくそやわ〜」「あやや、これはきれいに撮れてるやない!」と嬉しそうに話すので、先生を愛しているんだなあ〜とほほえましく思いました。

 

その頃、選挙前ということでマスコミが身辺を騒ぎ立てていたある時、当時高視聴率だった「3時のあなた」という番組に見覚えのあるマンションが映りました。すると、突然奥様が「大変!テレビにうちが映ってる!」と叫んだのでした。私は思わずマンション真下を窓からのぞいてみたら、なるほど撮影クルーが中継車両と一緒にいるではないですか。私の横に奥様も一緒に来てのぞいていたら、テレビの画面がグイーンとズームアップし、住まいの窓を大写しで撮影し出したのです。それに気づいた奥様が「伏せろ!」と叫びつつ窓下に沈み込んだので、私も慌てて同じ体勢に!奥様は「いや〜、危なかった!危機一髪や!」と大笑い。私も大笑いでした。

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また、ある時マスコミが色々とさぐっているから、家庭ゴミを捨てる時もなるべく小さくちぎってから捨ててもいい封筒に入れ、それらを今度は捨てるダンボールにいっぱい詰めてゴミを出そうということになり、暗くなってから重たいダンボールを奥様と私と二人して地下のゴミ収集所に運び出しました。すると、ある週刊誌で、ダンボールにお札を沢山入れて夜に運び出していると書かれたので、奥様はその記事をご覧になり「ゴミや!」と大笑い。そして、「いや〜、油断も隙もあらへんな」とつぶやいたのでした。

 

ポタポタ節約大作戦

大物政治家さんは、マンションの4世帯分あるワンフロアーを全部所有していました。

エレベーターを降りると片側の二つのドアは大切なお客様のお部屋と新聞記者のための部屋、もう一方の側のドアは、ご家族のプライベート住居になっていました。

ワンフロアに他の住人がいなかったためか、奥様は不用心にもどこのドアも開け放していました。プライベート住居に入るとすぐ廊下で、左手が大きなリビングになっており、そこに先生のデスクと椅子、中央には先生が新聞を広げて読むための大きな和テーブルがあり、さらに奥には和室がありました。またそのリビングのキッチン側の壁際には事務デスクがあり、そこには電話機と毎日届く郵便物が置かれていて、奥様はそこにエプロン姿でちょこんと座り郵便物をチェックしていました。

自分が出られない時にはこの電話に出てねと言われたのですが、当時携帯電話のない時代でしたので、大事な電話はそこにかかって来るため、とても緊張しました。そのデスクの端には、もうひとつ電話があり、その電話は警察に直通する電話でした。定期点検でベルがなることはありましたが、ほとんど使用することのない電話機でした。

 

先生は大変几帳面な方で、デスクは常に整然と片付けていらっしゃいました。毎朝5時半に起きると同時に、先生は和テーブルに新聞を広げ、大事な記事をみつけると、すぐに記事の四角に赤鉛筆でマーキングしていました。そして、そのために使う優に30本はある赤鉛筆の先を長く鋭く尖らせることが、まず最初に私が言い渡された仕事だったように思います。先生は、新聞全紙を2部ずつとっており、マーキングした記事の裏側にも大事な記事がある場合は、もう一紙の新聞でその記事をマーキングしていました。そして、マーキングした新聞はA4くらいの大きさにピシっと揃えてたたみ、それを仕事の合間の時間にせっせと読まれていたようで、毎朝束ねた新聞を持ってお出かけになりました。思えば、先生は家でも常に仕事モードで新聞や資料に目を通していらっしゃる寡黙な方で、またニュース以外のテレビを見たり、自宅でだらしない格好でくつろいだりするするようなことは一切ありませんでした。 

当時、その大物政治家さんは時のひとだったので、朝と晩に新聞記者が毎日やって来ました。私は毎日9時半に出勤したのですが、その頃には記者さん達は引き上げたあとで、キッチンの流しには山のような湯のみやコーヒー茶碗が下げられていました。当時は25社くらいの記者が毎日来ていたようでした。奥様はそんな新聞記者さん達に、朝はコーヒーと果物を、夜は日本茶または紅茶とお茶菓子さらに果物などをお出ししていたので、そのお茶の準備のためにお湯をわかして用意するのも後片付けも大変でした。デミタスサイズとはいえ、コーヒーカップ&ソーサーで2×25で50個、それに果物皿で25個、フォークが25個、たいしたことないように思うけれど、毎日となるとやはり大変ですよね。

そして、その奥様がどこで得た知識なのかわかりませんが、パッキングが壊れた蛇口から漏れる水道水のしずくは水道代がかからないんだとおっしゃり、当時お醤油が入っていたペットボトルをよく洗って、キッチンのポタポタ水滴の落ちる蛇口の真下に起き、信じられない時間をかけて水を溜め、いっぱいになると今度はそれをよく陽の当たる窓辺の縁にズラーっと並べて日中の太陽で少し温くなったらそれをやかんに入れ火にかければすぐに沸騰するので、水道代もガス代も節約できると大喜びで実践していたのでした。私は何か他の用をしながらも、常にポタポタ水滴の落ちる蛇口真下のペットボトルを気にしていなければならず、水があふれそうになったら、さっと次の空のペットボトルに置き換えるのでした。そういう節約を無邪気に楽しみながらやるのが大好きな奥様で、その先もいろんな節約大作戦をやらかして、私を驚かせたり恐怖に陥れるのでした。

 

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↑イラストの訂正 電気代× ガス代◯ です

 

 

大物政治家の奥様

今回、ずっとブログをお休みしていましたので、どうせなら時を戻そうと思い、私の若かりし頃の話をイラスト混じえて書いていこうかと思います。

 

以前、ブログにも書きましたが、私はとあるデザイン会社に就職し、忙しい日々を送っていました。メインは企画のお仕事だったのですが、なぜか週末になると製作に身売りされ、プレゼン前のデザイン作業のお手伝いをやらされていました。月に一度でも土日にそれをやると、代休のない会社でしたので、2週間ぶっ通しで働くことになりました。若さ故、そんな生活もそれほど意に介さず、仕事アフターは真夜中に飲みに行ったりもして、万年睡眠不足と不規則な生活が続いていたあるとき、私の身体に少しずつ異変が起きていました。見た目には全く症状がないので健康そのものでしたが、実は生理がずっと止まらなくなっていたのです。当時は今のようにググって病気を調べるという時代ではなかったので、たいしたことはないと勝手に思い込み病院にも行かず働き続けていましたが、さすがに1ヶ月半もその状態が長く続くと、貧血気味にはなるし、プチ鬱にもなっていました。

そんな時よく聴いていたのが、エリック・サティの「ジムノペディ」。家族でクルマに乗っていたある日、ラジオのFMからその曲が流れたので「あ、この曲、今、私が一番よく聴いている曲だわ」と両親に言うと、番組の最後に「今日は現代の心の病に効くとされている曲をお送りいたしました」とナレーションが入り、父が「お前、病んでるのか?」と聞いてきたのでした。

そのことがきっかけで、私自身も日常生活を少し改めるべく、仕事から離れて楽しいことを考えようと夏休みケニア旅行を思いついたのでした。そして、長年ずっと憧れていた「動物写真家 平岩道夫先生と行くケニア旅行」に申し込んだのでした。

当時働いていたデザイン会社は非常に進歩的で、夏休みはお盆時期に会社全体で2週間とれるということでしたので、私は大胆にもお盆を挟んだその時期を予測してケニア旅行を申し込んだのでしたが、運悪く、旅行前の2週間が会社の夏休み期間となってしまったのです。2週間の夏休み後にさらに2週間休みをとって旅行に行くとなると、都合4週間も出社しないということになります。ものすごく悩み抜いた末、私はなんとケニア旅行を優先する決断をし、会社に思い切って退職願いを出したのでした。

 

ケニア旅行を楽しみに、それだけを支えに毎日仕事をしていた私でしたが、運命のいたずらか、それまで平和だったケニアで、その年の夏に限ってクーデターが起き、ナイロビ市内の高級ホテルで観光客が射殺され、旅行代理店がケニア旅行を中止してしまったのでした。会社まで辞めてケニア旅行を準備していた私にとって、それは大ショックでした。会社には詳しいいきさつを話していなかったし、円満退社し送別会までやっていただいたのに、今更戻るわけにもいかず、しかたがないのでアルバイトを探していたその時、母の親友のご主人が大物政治家の主治医をしていたので、その流れで奥様が自宅で事務的なお手伝いを捜しているとのことから、身元が確かな私にやってみないかとお声かけいただいたのでした。

 

その大物政治家のご自宅は、都心の一等地にある超高級高層マンションでした。今でこそタワーマンションは都内のそこかしこに林立していますが、おそらく高層マンションの先駆けだったのではないでしょうか。エントランスを入ると、住居マンションだというのにホテルのように制服を来た受付の女性が常駐していました。

マンションのエレベーターを上がると、ドアのピンポンはなく開け放たれた状態になっており、声をかけると「は〜い」と関西のイントネーションで現れた奥様は、お手伝いさんと見紛うほど超普段着の普通のおばさんでした。

奥様は、気取りなく明るくてケタケタとよく笑い、関西弁で面白おかしく会話するとても気さくな方で、私が想像していたのとは真逆でした。本題に入ると「いつから来れます?」と明日からでも来て欲しいということになりました。履歴書を見せることもなく、ただ普通の世間話をしただけの面接でしたが、最後に奥様が「あなたのその鈴虫のような声で電話に出てくれたら嬉しいわあ〜」と、またケタケタと笑ったのでした。

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脳梗塞で母が倒れました その三

母は脳梗塞で全介護になり、審査の結果、要介護1から5と判定されても、介護度の見直し申請後すぐに認定はおりません。

しかし、入院した病院は、急性期病院でしたので母の容態が良くなれば退院は差し迫って来ます。とういうことで、認定がおりる前から、私たち家族はケアマネさんからのアドバイスを参考に、退院後どういう形で母を在宅介護をしていくか、具体的に考えなくてはなりませんでした。

そして、訪問介護は受けず、私が週5日(月〜金の5日間)兄夫婦が(土日の2日間)という役割分担を決めて実家で介護し、それ以外に訪問看護を週2回、訪問入浴サービスを週2回、訪問医師を隔週1回を受けようという方針を立てました。その他在宅ケアに必要なレンタル用品や消耗品などを入れて、介護保険制度の支給限度額月額約36万円の範囲内ですむように、ケアマネさんにお願いしました。その限度額を超えるサービスを受けると全額自己負担になってしまうのですね。介護保険を利用したとしても医療費は自己負担があり、在宅ケアもそれなりに費用はかかります。

正直、病院に入院中の時の母の容体は、医師からの指摘のとおり、とても回復は望めないという状態でしたので、兄と決めた介護方針で、本当に満足なケアができるのだろうかとても不安でした。

ところが、退院の前日、病院内でカンファレンスが行われ、母の在宅ケアにかかわる担当者が一同に揃って自己紹介をし、そして現時点での母の状態を医師から、また今後こうした方がいいという看護師からの提案があり、それを訪問医師と訪問看護サービスの主任と担当者、そしてケアマネ、レンタル会社の営業マン、そして私たち家族で情報の共有化をしたのでした。

私の不安を感じた退院支援の看護師が「今、ここに集まった人全員、お母様の介護をサポートするチームなんです。不安なことあったら、なんでも聞いてくださいね」とおっしゃってくださいました。自信たっぷりのにこやかな笑顔を浮かべて。ああ、きっとこういうこと、何百回と繰り返しているんだろうなと思いました。

 

家で介護の経験したことのない家族は、病人にとって病院こそが一番安心できる場所と思ってしまいますよね。

ところが、実際、自宅に戻った母は・・・

 

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母の部屋は、病院よりもずっと快適な介護用パラマウントベッドが入りました。ベッドの周りは、四方に母の大好きな氷川きよしのポスターが飾られ、そして枕元に置いたiPadからは母の大好きな氷川きよしの曲がエンドレスで流れ、食事は栄養にこだわらず、甘いものが大好きな母のために高カロリープリンなどのゼリー食品で食欲が出るようにしました。

そして、在宅ケアで感心させられたのは、訪問看護師さんのプロフェッショナルな仕事です。優しい言葉かけから始まり、母の状態で私が気づき不安を感じたことにテキパキと対応してくれます。毎日介護していると、様々な不安な出来事が起きて来ます。ほとんど昼間ひとりで介護している私にとって、週2回の訪問看護師さんは、まるで救世主のような存在です。この方たちは、母の介護をしながら、介護する家族の心のケアもしてくれているのだなと感じました。

吸引も陰部洗浄もオムツの交換も、病院で出来たと思って実際に家でやってみると病院とは色々違いまごつきます。ベッドで全く動けない母の身体の向きを変えたり、ベッドヘッドに移動させたりと、最初は母が重たくて泣きたくなりました。そんな時、楽なやり方を親切に教えていただき、どんなにか救われたことでしょう。しかも、病院の看護師さんは常に大勢の患者さんを相手にしていますから、母のそばにいる時間はせいぜい5分程度ですが、訪問看護師さんは長ければ1時間もいて、しっかり母の状態を観察し、ケアしていってくださいます。本当にありがたい存在ですね。

退院時からずっと見守ってくださっているので、母の様子がめきめきと元気になっていくのを感じた看護師さんが、そのことを医師に伝えて、リハビリの日を1日追加で入れてくれることになりました。

我が家にやって来た理学療法師さんは、菅田将暉似のさわやかな青年。感情表現が出来ない母でしたが、その若いスタッフさんを食い入るように見つめ続けるので、私も思わず笑ってしまいました。そして、彼はある程度母の身体を動かして準備したあと、寝たきりの母をあっという間にベッドに座らせたので、この人もさすがプロだと感じました。身体をほんの数分起こしただけで、その日の母の便通はすこぶる調子よく、やはり人間は二足歩行の動物なんだなと思いました。

母が退院したのが5月21日で、しばらく経った6月17日、いつものように私が母の部屋に入っていくと、母が私の半袖を指さして「あんた、そんな格好で寒くないの?私は寒いから布団かけて」としゃべったのです!「エエーーーー!!!」ですよね。

あーうーも言えない母が、いきなりそんな長い文章をしゃべったのには、もう私の方が気絶するくらい驚かされました。でも、それっきり全く話さないんです。あれはいったいなんだったのでしょう??

多分、毎日介護している私を母は喜ばせてくれたのでしょうね。

母と一緒にいる時間、グーパーで手を動かす運動をやっているうちに、バイバイもジャンケンも、また「口は?」とか「頬は?」と聞くと、動く方の人差し指でゆっくりと顔のその部分を触れるようにもなりました。

私は次第に介護がとても楽しくなっていき、百均で買ったボールでキャッチボールの真似事をし、母の手の中にボールをパコンと入れると、すごい速さでボールをつかめるようにもなりました。また同じく百均で買った幼児用のお絵かきボードで、算数の足し算掛け算の答えを2択で書いて正解を母に指差してもらったり・・・

看護師さんも、これなら秋には車椅子で外にお散歩に連れ出せるかもしれませんねと母の回復ぶりに驚いてくれました。

そして、7月5日、理学療法士さんが百均のお絵かきボードを使い、「数字の2を書いてください」と言ったら、なんとペンをしっかりと持って迷うことなく「2」と書くじゃないですか!

わあ、これは奇跡だ!すごい!すごい!と彼と一緒に大騒ぎ!母の表情はあいかわらず無表情でしたけれど、少しドヤ顔に見えました。

そんな素晴らしい奇跡のような感動を私に与えた翌々日の7月7日、その日は日曜なので私は実家には行かず自分の家にいたのですが、兄から電話がかかり「今、犬の散歩から戻ったら、お母さんが息してないんだよ」と。

七夕の日、母はひとりでこっそりとお星様になってしまいました。



 

 

脳梗塞で母が倒れました その二

母が入院して1週間経った時、担当医師から言われたことは、脳梗塞の範囲は入院時より広がり、半身不随なだけでなく意思の疎通、感情表現もできないということで、回復の見込みはほぼないと言われました。要介護認定5に値する母の状態では、リハビリもできないため転院も難しいので、今後は自宅に引き取り看取るという体制が望ましいのではないかと伝えられました。

とはいえ、本格的な介護など経験したことのない私たち家族が、いきなり要介護5の母のお世話をするのは難しいことは病院側も百も承知で、そのため病院には退院支援というシステムがあり、退院前に看護師から家族に介護のやり方を徹底指導してくれるとのことでした。

 

最初、看護師さんから介護のやり方を見学させてもらい、翌日から彼女達の指導のもとに家族が実際にやってみるというものなのですが、中でも一番やっかいなのが「陰部洗浄」という下の世話です。ただオムツ交換だけかと思ったら、毎日1回必ず陰部を洗浄しなくてはいけないということで、第一回は兄と私とで看護師さんから習いました。兄と私の指導が終わったあと、看護師さんは、他にも習いたいご家族はいますかと聞いてきたので、「おばあちゃんのお世話、自分も覚えたい。弟も一緒に連れていく」と姪が言っていたので、「姪と甥が教えてもらいたいそうです」と伝えると、兄の反応が!

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実際、看護師さんから習ってみるとまごつくことばかり。なかなか大変でした。そして、あらかじめきちんと必要なものを手元に準備しておくことがとても重要だということがわかりました。

兄はこの指導を受けた途端に、すぐにこれらを購入して退院準備を始めました。それだけではなく、褥瘡を防ぐ介護ベッドや、陰部洗浄と一緒に教わった吸引の機械をレンタルしたりと、ひとくちに自宅介護と言ってもこれまでのように部屋に布団を敷いて寝かせるのではなく、ある程度病院のような環境を整えるのだから、ケアマネさんとも相談し準備に色々とお金もかかります。

 

そんな家族の大変さなどわかるはずもない母は、いつ病院に行ってもほとんど眠っていて、声をかけると目を覚ますけれども、またすぐに寝入ってしまうという状態でした。

 

ところが、入院し点滴がはずれ6日目にはドロドロ食を食べさせたと聞き、すごく驚かされました。それは一番最初にスタートする嚥下機能の回復というリハビリなんだそうです。

これまで当たり前にしてきた「食べる」という行為が、こんなにも生命維持において大事なことだったとは、考えたこともありませんでした。

必要な栄養を取り「食べる」こと。これは、脳にある摂食中枢と嚥下中枢からの指令で口や喉を動かして、水分や食物を口に取り込み、胃へ送り込むことで、これを「摂食嚥下」の運動というようです。この運動機能をいち早く開始しないと、どんどんと衰弱してしまうわけで、特に入院時に延命治療を断っている母は自力で嚥下機能を回復し栄養摂取しないと、すぐさま死に至ります。

幸い、リハビリの方がトロミをつけた食事を時間をかけながら少しずつ食べさせてくれたおかげで、10回のうち7回は食べられるようになりました。

 

ただそこに至るまで、むせて食べられないこともあり、ある時医師が私にこのまま口から食べられないようだと鼻から管を通して栄養を入れることになりますが、どうしますか?と聞いてきました。「経鼻経管栄養」というそうですが、それをしないと生命に危険が迫ることになりますが、とおっしゃるのです。それは延命治療ではないのですか?とお聞きすると、何故かそれには当たらないと。それで私は「では、先生が、母と同年で、脳梗塞で今の母と同じ状態になった時、鼻から栄養を入れるという行為を望みますか?」と逆に質問してみました。すると、先生はとても困った顔をし言いにくそうに「お母様の年齢を考えますと、まあ、私は望まないだろうと思います」

とても正直な先生だなと思いました。「では、母もそれはしません」と応えました。そういうやりとりを、眠っている母に聞こえていたかどうかはわかりませんが、そのあと、口から食べるようになったのでした。

 

 

 

 

脳梗塞で母が倒れました その一

しばらくずっと更新できずにいました。

実は、タイトル通り、母が脳梗塞で倒れてずっと病院に付き添っていたからです。

母は4月10日で満92歳になりました。私は、その前日の9日に夫が買ってくれたお菓子をプレゼントとして持っていき、母と楽しく談笑しました。

「あら、あたし、まだ92歳なの?じゃあ、百までまだまだだわねえ。」

「そうよ、お母さん、それにもう間も無く元号が平成から令和に変わるのよ。お母さんは昭和2年生まれ、昭和と平成をまるまる生きたんだから、すごいことよね。そして令和の時代になれば三つの元号を生きることになるのよ。すごいねえー!」

認知症の母は、その時「令和」という元号のことがよくわかっていないようでした。それで、私は天皇陛下のご退位についての説明をし、新天皇陛下と皇后様のお写真をスマホで見せながら、新しい時代の幕開けを話しました。

その4日後、13日の夜、母は突然前触れもなくトイレで倒れました。

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実は、母が脳梗塞で倒れる数週間前に、家の中でトイレまで行く途中に転んでしまい、その日以来腰が痛いといって、1日のほとんどを布団の上で過ごすようになっていました。

それでも、気丈な母は、痛みをこらえながらも、トイレだけは、7、8メートルくらいある廊下をシルバーカーを押して頑張って歩いてました。

私が母に会いに行くと、部屋の中にあるポータブルトイレを指さし、「大きい方だけはトイレでしないと迷惑がかかるから、トイレまでは歩いていくの」と言っていました。

そういう母のひとに迷惑をかけたくないという気持ちは、私にもよくわかるし、その結果、筋力も鍛えられて足腰が丈夫になれるのならと思っていました。

今回、トイレで静かに逝ってしまうことなく、病院に運ばれてとりあえず一命を取りとめたことは、家族にとっては有難いことでした。

病院に搬送されるとすぐにCTを撮り、医師から母が脳梗塞であることを伝えられました。しかしながら、高齢で認知症が進んでいた母は、脳が萎縮し頭蓋骨との間に隙間があり、血管が詰まって脳が膨張してもその隙間があるお陰で助かったのだそうです。もっと若い年齢だったら、こんなに広範囲に脳梗塞が広がれば、脳に圧がかかり死にいたるとのことでした。

高齢のおかげで助かったんですね。

とはいえ、意識はなく、ぐったりとした母を見ると、家族は、母の死を覚悟しなくてはいけないことを悟りました。

医師からは、脳梗塞発症4時間以内の治療、8時間以内の治療のタイムリミットが過ぎた場合、出来ることは限られますが、今後のことについてどうするか尋ねられました。

その時、私は、母が書いた延命治療を望まないという強い意志の書き置きをスマホに写真撮っていたことを思い出し、先生にそれをお見せしました。

そうなんです、たまたま金庫にしまってあった母の手書きの「尊厳死の宣言書」をスマホで写真を撮っていたのが、まさかこんな非常事態にすぐに見せることが出来たというのは、自分でもビックリでした。

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ずいぶん前になりますが、主人の方の義母が脳内出血で病院に運ばれた時は、家族が戸惑っているうちに、どんどんと治療が進み人口呼吸器に始まり、次は胃ろうにしますか?という急性期病院ならでの延命治療メニューの決断に迫られました。

たしか、その時に私と一緒に義母を見舞いに行った私の母が、無意味な延命措置はしないでほしいと書いておく必要があるわねえと言い、後日この書面を作ったのでした。そして、これと一緒に、兄、兄嫁、私宛に、この内容に書いてあることを実行して欲しいと、別にお手紙が添えてありました。

とはいえ、この母の宣言書はどの状態になった時に執行すべきなのか、家族にとっては悩ましいものですよね。今回、もっとずっと早くに病院に運ばれたなら、4時間半以内、8時間以内の救命処置をしたと思います。この場合は、無意味な延命治療ではなく、きちんとした救命措置なのでいいのかもしれません。けれども、タイムリミットを過ぎた途端に、この宣言書の執行になるのかと思うと、母の意志とはいえ、複雑な思いになりました。けれども、母を思い決断が鈍る時にこそ、この宣言書は私達家族に勇気を与える母の大いなる愛なのかもしれないと感じたのでした。

 

おばあちゃんと犬

先日実家の母に会いに行った時、離れて暮らしている姪が、まだ飼い始めたばかりの赤ちゃんの犬を連れてやって来ました。まだ家から外に連れ出したことがなかったので、その日はお披露目と同時に、ひとに慣らす訓練も兼ねてクルマに乗せて来たのでした。

 

マルチーズとトイプードルのハーフ犬で、3月3日にやってきたということでオスだけれどもミミちゃんという名前。今日の漫画はその時のお話です。

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実家には、兄のところに、中学出てから高校には行かず絵の教室に通っている末の息子がいるのですが、その子が動物大好きで、ある時どうしても犬を飼いたいと言い出しました。家にひきこもって外でひとと触れ合うことが苦手な子でしたが、ペットを飼うことで朝早起きして散歩に行くことと、餌代のためにコンビニで働くことを条件に、コーギー犬を飼うことになりました。

 

ただ実家の母はとてもきれい好きなので、ペットを飼って家の中が汚れたらきっと怒るだろうからと、おばあちゃんの許可を得ることなく、二階でこっそり飼い始めました。

コーギーはそれはそれはおとなしい犬で、誰が家に入って来ても決して吠えることがなかったので、二階の甥っ子の部屋で飼っているコーギー犬に、さすがのおばあちゃんも気づくことはありませんでした。

その後、母の容態が悪化して全くの寝たきりになってしまったので、認知症はさらに進行していき、最近起こったことはどんどんと忘れてしまうようになりました。

わりと大きな実家ですので、二階で飼っている犬と母が遭遇することもあまりなかったのですが、そのうち、母も元気になり二階にも上がれるようになったのですけれども、母の目の前に犬がいても何故か気づかないようで、それはなんとも不思議といえば不思議なのですが、犬が家の中にいるとは信じていないため、母の記憶に犬の存在は定着されないようでした。

そんなところに、姪がまだ産まれてまもない生後3ヶ月のふわっふわ、モフモフの可愛いベビー犬を連れて来たら、母はさっと手を出して抱き上げながら「私が犬好きだってことがわかるのねえ」と言ったのには、私たち驚かされました。しかも、兄や私がまだ生まれる前に、この家で犬を飼っていた時代のことまで思い出したのですから、母の脳に電流が走ったことだけはたしかなようです。

ところが、二階で飼っているコーギーのコイチの存在だけは、やっぱり認識できていないようでした(笑)

最近ケアホームでは認知症の入所者のためにセラピー犬を飼っているところも多いようで、現に義父のケアホームも去年までは可愛いビーグル犬が受付にちょこんと座ってました。

今回のように、直に可愛いベビー犬と接したら認知症のせいか喜怒哀楽の表情が乏しくなってきていた母がとっても嬉しそうな顔をして、しかも昔の記憶を思い出し語ったりしたので、犬のセラピー効果はたしかにあるものだなと実感しました。

この先、姪が時々クルマに乗せてミミちゃんを連れて来てくれたら、おばあちゃんは今よりももっと元気になるような気がして、私もとても嬉しい気持ちになりました。