脳梗塞で母が倒れました その一
しばらくずっと更新できずにいました。
実は、タイトル通り、母が脳梗塞で倒れてずっと病院に付き添っていたからです。
母は4月10日で満92歳になりました。私は、その前日の9日に夫が買ってくれたお菓子をプレゼントとして持っていき、母と楽しく談笑しました。
「あら、あたし、まだ92歳なの?じゃあ、百までまだまだだわねえ。」
「そうよ、お母さん、それにもう間も無く元号が平成から令和に変わるのよ。お母さんは昭和2年生まれ、昭和と平成をまるまる生きたんだから、すごいことよね。そして令和の時代になれば三つの元号を生きることになるのよ。すごいねえー!」
認知症の母は、その時「令和」という元号のことがよくわかっていないようでした。それで、私は天皇陛下のご退位についての説明をし、新天皇陛下と皇后様のお写真をスマホで見せながら、新しい時代の幕開けを話しました。
その4日後、13日の夜、母は突然前触れもなくトイレで倒れました。
実は、母が脳梗塞で倒れる数週間前に、家の中でトイレまで行く途中に転んでしまい、その日以来腰が痛いといって、1日のほとんどを布団の上で過ごすようになっていました。
それでも、気丈な母は、痛みをこらえながらも、トイレだけは、7、8メートルくらいある廊下をシルバーカーを押して頑張って歩いてました。
私が母に会いに行くと、部屋の中にあるポータブルトイレを指さし、「大きい方だけはトイレでしないと迷惑がかかるから、トイレまでは歩いていくの」と言っていました。
そういう母のひとに迷惑をかけたくないという気持ちは、私にもよくわかるし、その結果、筋力も鍛えられて足腰が丈夫になれるのならと思っていました。
今回、トイレで静かに逝ってしまうことなく、病院に運ばれてとりあえず一命を取りとめたことは、家族にとっては有難いことでした。
病院に搬送されるとすぐにCTを撮り、医師から母が脳梗塞であることを伝えられました。しかしながら、高齢で認知症が進んでいた母は、脳が萎縮し頭蓋骨との間に隙間があり、血管が詰まって脳が膨張してもその隙間があるお陰で助かったのだそうです。もっと若い年齢だったら、こんなに広範囲に脳梗塞が広がれば、脳に圧がかかり死にいたるとのことでした。
高齢のおかげで助かったんですね。
とはいえ、意識はなく、ぐったりとした母を見ると、家族は、母の死を覚悟しなくてはいけないことを悟りました。
医師からは、脳梗塞発症4時間以内の治療、8時間以内の治療のタイムリミットが過ぎた場合、出来ることは限られますが、今後のことについてどうするか尋ねられました。
その時、私は、母が書いた延命治療を望まないという強い意志の書き置きをスマホに写真撮っていたことを思い出し、先生にそれをお見せしました。
そうなんです、たまたま金庫にしまってあった母の手書きの「尊厳死の宣言書」をスマホで写真を撮っていたのが、まさかこんな非常事態にすぐに見せることが出来たというのは、自分でもビックリでした。
ずいぶん前になりますが、主人の方の義母が脳内出血で病院に運ばれた時は、家族が戸惑っているうちに、どんどんと治療が進み人口呼吸器に始まり、次は胃ろうにしますか?という急性期病院ならでの延命治療メニューの決断に迫られました。
たしか、その時に私と一緒に義母を見舞いに行った私の母が、無意味な延命措置はしないでほしいと書いておく必要があるわねえと言い、後日この書面を作ったのでした。そして、これと一緒に、兄、兄嫁、私宛に、この内容に書いてあることを実行して欲しいと、別にお手紙が添えてありました。
とはいえ、この母の宣言書はどの状態になった時に執行すべきなのか、家族にとっては悩ましいものですよね。今回、もっとずっと早くに病院に運ばれたなら、4時間半以内、8時間以内の救命処置をしたと思います。この場合は、無意味な延命治療ではなく、きちんとした救命措置なのでいいのかもしれません。けれども、タイムリミットを過ぎた途端に、この宣言書の執行になるのかと思うと、母の意志とはいえ、複雑な思いになりました。けれども、母を思い決断が鈍る時にこそ、この宣言書は私達家族に勇気を与える母の大いなる愛なのかもしれないと感じたのでした。