今日もぽれぽれ

「ポレポレ」とはスワヒリ語でのんびり、ゆっくりという意味です♡

子供からの心に残るプレゼント

うちの子供たちは、もう立派な大人になってしまいましたが、今一生懸命子育てに奮闘しているママたちのブログを見ると、ああ、私にもそういう時代があったなあと懐かしく思います。

まだまだ幼いと思っていた子供が、親の普段の様子を観察していて、時に大人びた思いやりのある言葉をかけてくれたり、悲しみや寂しさ、大変さに気づいてくれていたりすると、驚かされます。そう、心も身体も一緒に成長しているんですよね。

日々の生活に追われていて心に余裕がなかったりする時も、子供はしっかりと親をみています。

子供に気を使わせていたりしませんか?

あまりに身近にいる存在だからと、子供の心の声を聞きのがしていませんか?

大人にとっての今は5年、10年先もそう変わらない状況かもしれませんけれども、子供にとっての「今」はまさに今しかないんですよね。

その子供の「今」を、なるべく心に留めてあたたかい言葉を交わしてあげたいですよね。実際、私は、子供の「今」をちゃんと受け止めてきただろうか?そういう反省を込めて、今日の漫画を描きました。

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洗濯物干しのハンガーは、スーパーで安く売っているけれども、強風が吹いたりするとすぐに壊れてしまいます。とくに洗濯バサミはすぐに壊れて取れてしまうので、私はその都度、新しい洗濯バサミを針金使って補修したり、新しいのを買えばいいのかもしれないけれど、どうも物持ちがいいというか、貧乏くさいというか、修理して使うクセがあるんです(笑)

すごく丈夫なスティールハンガーが世の中にあることは知っていたけれども、あの値段を出すのはちょっと、と母子家庭時代はいろいろ我慢することばかりでした。

ある日、「今何か欲しいものはある?」と娘に聞かれたと思うのですが、その時困っていたから「洗濯物干しハンガー」と応えたように思います。

その当時、ロシアの二人組「タトゥ」のコンサートが渋谷であって、そのチケットをプレゼントされた娘は従姉妹とふたりで行くことになりました。

場所が渋谷だったので、コンサート前にあこがれのロフトに行き、なんと私が欲しがっていた頑丈そうな洗濯物干しハンガーを探して買ってくれたのでした。ものすごい人混みの中を「洗濯物干しハンガー」が入っている大きな袋を持ち歩き、家まで運んで、私にプレゼントしてくれました。

「洗濯物干しハンガー」欲しいって言ってたから、ロフトですごくいいのをみつけたよって言われ、胸がジーンと熱くなりました。でも、背の低い娘が渋谷のロフトで「洗濯物干しハンガー」を買ったということが、なんだか笑ってしまうくらいおかしくもありました。所帯じみてますよね?(笑)

でも、今でもとても心に残るプレゼントだと思います。

 

また、息子からのお土産で心に残るものは、山海の珍味です(笑)

軽井沢の林間学校に行くというので、お土産代も含めて一定額のお小遣いを渡したと思うのですが、そのお金を使ってお土産に買ってきたものが山海の珍味の「きくらげたらこ」でした。

薦められたら断れないという優しい性格の息子につけこんで(?)試食からの販売、もう想像できます!唐辛子も入っているので、小学生が食べる食材ではないし、あきらかに、息子を狙ってましたよね、そのみやげもの屋のおばさんは(笑)

まあ、それでも、わざわざ軽井沢まで行って、そういうお土産を親に買ってくるなんて、なんだか息子らしいし、今でもすごく心に残っています。はい「サンカイノチンミ」(笑)

子供と私の楽しい思い出のひとつです。

 

母の老眼鏡騒動

母が我が家に来たついでに、娘の結婚式のアルバムができてきたので見せることにしました。

すると、母はいつものようにメガネケースから老眼鏡を取り出してかけたのですが、なんと、そのメガネがあまりにひどかったので、今日はその時の様子を漫画にしました。

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母は医者で我が家で一番お金を稼いでいたひとなのに、本当に自分のことにはほとんど贅沢をしません。でも、老眼鏡は生活に必要なものだし、それが壊れたならば、家族におしえてくれてもよさそうなものなのに。なんだか、そんな母がいじらしくて、せつない気持ちになり、涙が出てきました。

母を迎えに来た兄のクルマにのせてもらい、大至急メガネを買いにいくことにしました。それまでの度数を調べて、もう少し度を上げたレンズで、視力の具合をみてみたら、カタカナと数字は読めるのに、漢字のところにくると、しどろもどろで全然読めません。当てずっぽうで変な読み方していたら、私の横にいた兄が

「お母さん、認知症が進んで、ついに漢字が読めなくなっちゃったんだね。」と言いました。

私は、認知症が進むと漢字まで読めなくなるの?だとしても、まだ介護認定1の母がそうなるのは早すぎるんじゃないの?って思いました。

すると、お店の店員さんが、では、一番大きい文字の箇所を指差して読めますかとたずねました。

すると、サラサラと読むではないですか。

もう、ビックリ!兄の早とちりでした。脅かさないでほしいです。それこそ、我が家で一番教養あって、一番難しい漢字を読めるのは母なんですから。

レンズの度が決まり、フレームを選んでくださいと店員さんに言われたら、兄がセールになっている一番安いフレームの中から、これがいいよとお母さんの顔にかけてみました。

「ええ?もう少し高いの、買ってあげようよ」と私が言うと

「いいんだよ。これで」と母の顔を見ながら兄が一言

「ほら、お母さん、エルトン・ジョンみたいでいいじゃない!」

って、なんで、母をエルトン・ジョンにしたいのか、意味がわかりませんけれど、紫色のセルのフレームはそれまでかけていた金色の老けメガネよりも可愛いかったので、結局兄の選んだフレームを買うことにしました。

翌日、母のフットケアサービスの方に爪切りを依頼していたので、実家に行くと、母のお布団の横に可愛いメガネケースが置いてあり、紫のエルトン・ジョンメガネが鎮座してました。

お母さん、ちょっとかけてみて、と言ってメガネをかけさせ私が写真を撮ってあげました。写真を見せながら

「これまでのより、可愛くてずっと若々しいね」

と言うと、母はとても喜び、

「これなら、この写真をとっておいて遺影でもいいね」と言いました(笑)

いや、それは、また、考えましょうよ。。。(笑)

 

 

90歳の母とお友達

最近、母は少しずつ復活の兆しを見せ始めました。

一年前は、本当にこのまま母は逝ってしまうのだろうかと、周囲を心配させていましたが、以前もブログに書いたように、娘の結婚式以来、メキメキと元気になり、家の中では歩行器を使って歩くようになったし、一番嬉しく感じていることは、朝起きて自分でお着替えをするようになったことです。といっても特別起きてすることはないので、部屋でお布団のところにいることには変わらないのですが、ちゃんと昼夜区別して、昼間はパジャマを脱いで普段着に着替えるようになったのは、大きな進歩なのではないかと思います。

そんな母をずっと心配し続けてくれた、うちの近所に住む母の親友が、私の家で三人でお昼を一緒に食べましょうよと言ってくださいました。

お友達は重たいのに、わざわざお弁当を買って、キャスター付きのバッグに入れて引っ張りながら、歩いてやって来ました。

今日はその時の漫画です。

ちょっとおかしい二人の関係(笑)

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なんだか、とってもおかしな二人の関係。

お友達は、母が少し認知症になり、コミュニケーションが不得意になって、まわりに気遣い出来なくなってしまったことを、そのまま受け入れてくださり、いや、むしろ「大進歩だわねえ、ヨシコさん。ほんと、素晴らしいわ」とさんざん褒めちぎってくださいました。

90歳になっても、仲良くしてくれるお友達がいるなんて、母は本当に幸せものです。

お友達は、健脚で毎日3000歩を心がけているそうです。帰りはまた歩いて帰っていきました。

私は、母とお友達が我が家で楽しい時間を持てたことで、とりあえずホッとしました。さあ、帰宅というところで、ちょっとしたハプニングがありましたが、それは、また次回の漫画で描こうかなって思います。

 

不思議で泣けちゃう話

私の親友のルミちゃんは、私と同じ大学だったけれど、すごく親しくなったのは大学を卒業してからでした。彼女は某ファッションブランドのプレスをやっていて、いつも忙しく飛び回っていました。

私が働いていたオフィスが南青山で、ルミちゃんの北青山のオフィスと近かったので、時々ちょうど真ん中あたりの青山通りのお店で待ち合わせし、お昼を一緒に食べました。

ルミちゃんは仕事柄いつもカッコいいファッションで現れました。そして、お洋服だけでなく、アクセサリーも耳や首、腕まで大きくてジャラジャラするのをつけていて、青山通りの横断歩道でルミちゃんが現れるととても目立ちました。

互いに仕事が夜遅くまであったので、飲みに行く時間は夜もふけ、西麻布のクラブや外苑前、また彼女の家が新宿2丁目だったので、あちこちはしご酒して飲み歩いていました。

私が結婚して子供が出来てからは、ルミちゃんとはなかなか会えず、だんだんと電話でのやりとりだけになってしまったのですけれども、プレスの仕事で海外に出た時は、パリやニューヨーク、時にはアフリカからもマメに絵葉書を送ってくれ、またある時はパリから電話をかけてきたりして驚かされました。

そんなルミちゃんは、元気いっぱいだったのですが、ある日プールで泳いでいる最中に突然くも膜下出血で倒れ、そのまま帰らぬひととなってしまったのでした。

私は親しすぎたせいか?彼女のアドレス帳に私の連絡先が記載されていなかったらしく、私のところには訃報が届かず、お葬式にも出ることができませんでした。その後、人伝てで彼女が亡くなったことを知り、私は彼女から届いた海外からのメッセージ葉書をご実家のお母様に見せてさしあげたら喜ぶと思い郵送すると、お母様から納骨には二人の子供を連れてぜひ出てほしいと電話をいただきました。

 

生前、ルミちゃんは離婚の危機にあった私の結婚を心配してくれていました。

彼女の死後、いろいろとすったもんだあった後、離婚が成立して二人の子供を連れて小さなアパートに引越しをしたわけですが、その疲れきった夜、私はそれまで全く見たことなかったルミちゃんの夢を見たのでした。

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私は青い橋が見えるこの部屋に引っ越したいと思いました。ところが、その部屋には先約があり審査に入っているということだったのと、夫の引越し準備が整いそうもないということで、気に入っていたのですが、その物件を見送ることにしました。

それから半年くらいがたち、違う不動産会社でもう一度お部屋探しを始めたのですけれども、なかなかいい部屋がみつかりませんでした。半年前に見せてもらい流れてしまった物件が気に入りすぎていたというのもありました。

ある日、不動産会社の営業の方が、どこか気にっているところがあるのですか?と私に聞いてきたので、私は前の不動産会社に紹介され案内された物件の話をすると、すぐに調べてくれました。

すると、なんと不思議なことに、その部屋は空室になっていたのでした。

そんなわけで、私たちは、幸運にも一番最初に見て気に入ったお部屋に引っ越すことができたのでした。

 

奇妙なことが、また起きました。

ちょうど、この漫画を描いていたら、電話が鳴ったので出てみたのですが、受話器の向こうからは何も声が聞こえてきませんでした。でも、私は何だかルミちゃんがかけてきたような気がしました。

私は、ルミちゃんに今幸せだよと伝えてあげたかったです。

この話、私にとっては、ちょっと不思議で泣けちゃう話なんですよね。

 

 

母はいつでも救いの神様

今日は母の入浴日でした。

兄がクルマでうちのマンションまで送ってくれ、私が母を部屋に連れて行き、入浴介助をします。

うちが高層マンションの高いところにあるので、エレベーターで上がると「マサカズ(兄)もお風呂に入っていくんでしょ?」と、なんだか、我が家をビルの中にあるお風呂屋さんと勘違いしている気がします(笑)

 

最近まだら認知症気味の母の決まり文句は

自分の腕をさすり、浮き出た血管を指差しながら

「みてよ、こんな血管が浮き出ちゃって、もう骨と皮だけよ。骨皮筋子だ」

また、今年の4月に90歳になったばかりなのに

「もう100歳だからどうしようもないね」

 

はじめ「まだ90になったばかりよ」と私は母の言うことを否定していたのですけれど、繰り返し100歳と言い続けるので、否定せずに最近では母の言うとおり100歳ということにしています。

家庭と仕事を両立させて、なおかつ常にひとの世話まで焼いていた母。

老いて、だんだんと自分のことができなくなってしまい、良妻賢母だった母のプライドがもしかしたら少しずつ傷ついているのかもしれません。それで毎回同じセリフを繰り返し、子供にやっかいになって生きている自分自身をなぐさめているのでしょう。

今日は母を思って漫画にしてみました。

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古い話で恐縮ですが、昭和61年~72年、日テレで一斉を風靡したバラエティ番組「シャボン玉ホリデー」の名物コントの一場面にこんなのがあります。
病気で寝ている父(ハナ肇)に娘2人(ザ・ピーナッツ)がおかゆを作って持って来ます。

「おとっつあん、おかゆができたわよ」

「いつもすまないね、オレがこんな体でなければ」

「それは言わない約束でしょ」

おちは毎回違うのですけれど、同じコントを毎回やっていました。

 

このコントで年老いた親は子供に面倒をみてもらっていることをいつもすまながっていたんですよね。

このコントじゃないけれど、母もそう感じているのかなあと思いました。

でも、これまでいろいろ心配をかけて世話ばかりかけた母に何の恩返しもできなかったら後悔しまくると思います。今、小出しですけれども、こうやって母親の面倒をみられること、これは本当にありがたいことなんじゃないかと思います。

 

 

母から息子への卒業祝い

最近大人になってから歯の矯正をするひとをけっこう見かけます。

歯ならびってけっこう気になりますよね?

私の歯ならびはかなりひどいものなのに、歯の矯正は保険外で高額治療なため、私の親は歯の矯正をしてくれませんでした。お陰で私はトウモロコシを人前で食べられません。なんて汚い食べ方をする人なんだと思われてしまうからです。

また、大口をあけて笑うのも、ちょっと躊躇、、してないか(笑)

しかし、私の兄は昔、私の歯並びを見て「お前の歯はうちが貧乏だったのを物語ってる」と自分の親に対してずいぶんと失礼なことをよく言ったものでした。

矯正でなくても、今や歯の治療は保険外の高額治療が一般的になりつつあるのか、最近は治療前に見積もりが提示され、どうしますか?と聞かれますよね。あれ、けっこう悩みます。

今日は、息子が小学校時代の漫画です。

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塾の帰りに自転車に乗っていた息子が、何かをよけようと突然ブレーキをかけた途端に、ハンドルに頭から突っ込み、顔面血だらけになり救急車で病院に担ぎ込まれました。

私はその知らせをメトロの携帯で知りました。ちょうど途中駅で携帯電話が鳴り、出てみると娘が取り乱しながら「お母さん、事故、ナオキが救急車で運ばれた!」え?って聞き返した途端にメトロが動き出して携帯が切れ、次の駅でちょうどまたかかってきて、今度は実家の母が出て「○○病院だって!あんた、場所がわかるならすぐに行ってあげて」と。

もうあの時は、息子の状況が全くわからなかったので、娘の電話から一気に最悪な状態を想像してしまい、心臓はバクバク、携帯持つ手がブルブルと震え出し、涙は出てくるわで、あんなに取り乱したのは人生で初めてでした。

ちょうど病院がメトロの沿線上だったので、そのままかけつけました。夕方で外来診療は終了していたので、病院の入口は閉鎖され、夜間通用口で事情を言うと、案内された場所に息子がポツンとひとりで座ってました。

私が声をかけると、なんと息子は自分のことより、かけつけた私を気遣い「お母さん、心配かけてごめんなさい」と泣き出したのでした。

すると、医師が出てきて、「レントゲンと脳波を調べましたけれど異常はありませんでした。ただ、前歯で唇を切ってかなり血が出て、また歯も折れて神経がむき出しになっているので、大至急歯医者に連れていかれた方がいいと思います」との説明でした。

それから、タクシーで地元の歯医者に電話してとびこむと、そこも診察は終了していたのですが、息子の歯があまりに無残な状態だったので、すぐに治療をしてくれました。

歯医者の先生は「お母さん、この前歯2本はもうダメだから、根っこだけ残して差し歯になりますよ。いいですか?」と言いました。

いいも悪いもないので、お願いしますというと

「差し歯は、保険にしときますか?まだ子供だし、プラスチックの歯で見た目悪くてもいいよね?」と聞かれ、当時うちは母子家庭だったので、保険での治療以外は考えられませんでした。そういうことを配慮してくれたのか、この歯医者の先生、儲け主義ではなく、とてもいい先生だったので助かりました。それに、息子の歯の治療に診察時間を超過して残業してくださり、すべて終わったのは10時近かったと思います。

 

息子の前歯は、その後異常なく大学までずっとそのままだったのですが、私は息子のプラスチックの歯が黄色く変色してきているのがとても気になっていました。私は自分の歯の矯正してもらえなかった経験があったので、せめて息子の歯をきれいにするのは、親の自分の役目だと思いました。

そう、それで、息子の大学卒業祝いとして、前歯をセラミックの美しい白い歯に(笑)

社会人になると、歯の治療で長期間歯医者に通院するのは厳しいと思ったし、いつの日か好きな人でもできたらきっと感謝してもらえるだろうと思って。

でも、息子は社会人になったら、パソコンはいくつも買うわ、ゲーム機もゲームソフトも次々買うわ、けっこう高額な無駄遣いしているので、こんなんだったら自腹で治療させてもよかったかな?

 

でも、息子が大口開けて笑っている時の白い前歯を見るたび、ああ良かったな〜って母は思っているのです。

 

分娩室ひとりぼっち

今日は娘の誕生日です。

なんと娘も三十路となりました。娘も驚いているかもしれませんが、私自身が一番驚いてます。

今日は、私の初めての出産、つまり娘の誕生の模様を思い出しつつ書いてみようかと思います。

30年前、真夜中の2時ごろ陣痛が始まり、家の近所の病院に入院しました。今はどこの産科も、女性が不安なく出産を迎えられるよう至れり尽くせりだと思いますが、30年前は産科だからといって、妊婦さんにやさしい環境ではありませんでした。真夜中通された妊産婦がいっぱいいる大部屋の薄暗い病室で、ベッドに横たわり、私はひとり心細く痛みに耐えてました。

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夜が明ける頃、痛みと戦っていたはずの私はリラックスできる音楽をイヤホンで聞いていたために寝入ってしまいました。すると朝になってやってきた看護師さんに、「眠ったらせっかくいい感じで来ていた陣痛が遠のいてしまったじゃないの」と、眠ってはいけないと注意されました。朝食も昼食も出たけれど、痛みで食べるどころではありませんでした。

その日の分娩はどうやら私だけだったらしく、夕方になると、私を分娩室に運び、分娩台に乗せると、看護師さんは「このぶんなら、夜の7時過ぎかしらねえ」と言いました。この痛みで、こんな恥ずかしい格好であと2時間もいろってこと?ショックでした。

そうこうしているうちに、看護師の交代時間なのか、私ひとりを残して看護師は出て行ってしまい、部屋には誰もいなくなってしまいました。

ひとりにさせられた不安もあってか、急に強い陣痛に襲われ、相当危なっかしかったのですが、固定された両足をはずして分娩台をおりて、看護師さんを呼びに行こうと思いました。ところが分娩室の扉を開けた先の処置室にも、看護師さんはいなくて、机の上の電話の受話器を取りあげても誰も出なくて、そのうちポーンと破水してしまいました。そうなると、もう恐怖でしかありません。耐えきれない強い痛みからパニックになり「誰か助けてー!」と大声で叫んでいました。病院の分娩室で、これはないだろって思いました。

ようやく、看護師が入って来て、私が状況を説明すると「あら、まだずっと先だと思っていたのに、助産婦さん呼ぶから、分娩台に上がりなさい」と。

この看護師は鬼だと思いました。

私の両足を固定すると、「フーフーハーでしょ!ちゃんと呼吸する!」と命令口調。

まだ絶対に出産経験なんぞないだろう若い看護師に怒られながら、呼吸を整えようとしても、痛みが強すぎて上手な呼吸なんてできませんでした。そのうち初めていきみが襲ってきて、「ダメ、いきみたい」というと、看護師に「今準備しているからダメダメ!まだいきんじゃダメ!」と叱られ、いきみを我慢していたら、遅れて入って来た助産婦さんが「いいわよ、いきみたくなったら、いきんだって。そんなすぐには出て来ないから大丈夫よ」と言われました。ところが、やっとかけられたやさしい言葉に救われたのか、私の不安が消えて、2、3回いきんだらいとも簡単に出て来てくれたのでした。出産はやっぱり助産婦さんの力が偉大だ!

そして、お腹の中で私を蹴飛ばしていた我が子とようやく対面できた感動は、30年経った今も忘れることはできません。

こんな話を娘にしたかどうかは覚えていませんが、30年経った今日、私の備忘録として漫画にしておきました。