今日もぽれぽれ

「ポレポレ」とはスワヒリ語でのんびり、ゆっくりという意味です♡

母子家庭時代 「ある日のアパートでの出来事」

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BGM:パピエ(森山良子) なんちゃって

 

離婚してまなしのある日、アパートに娘のお友達とそのママが2組遊びにやってきました。6畳と4畳半の二間はふすまを取り払っていたけれども、タンスやらテーブルやら家具がところ狭しと置かれ、大人3人子供3人が入るとかなり窮屈な上、何よりも大人の会話が丸聞こえでした。

ママのひとりが、私が離婚したことを心配して言いました。

「子供は傷つきやすいから、お父さんとお母さんが離婚したこと、学校では内緒にしておいた方がいいと思うわよ」

「大丈夫よ。うちの子は。隠していたとしてもいずれわかってしまうことだし」と言うと

「ダメよ。絶対に内緒にした方がいいって。お父さんがいないことで変な目でみられたり、いじめられたりしたら、かわいそうじゃない」

「でも下の子供が同じ幼稚園のママ達は、保育園に移る時、私のために送別会を開いてくれたので、みんな事情は知っているし、あなたも知っているわけだから」

「あら、私達は絶対に言うつもりはないから安心して。あ、でも仲良しの○○ちゃんのママと○○ちゃんのママにだけは話したけれど、一応ふたりには口止めしておいたし、だから大丈夫」

既に同じクラスのママが4人も知っているのに大丈夫?

 

私は離婚はしたけれども、そして狭いアパートに引越したけれども、毎日学校から戻った時に「おかえりなさい」と子供達を迎えてあげられないけれども、物質的に恵まれた生活は出来なくなったけれども、そのどれもがひとから後ろ指差されるようなことではないわけだし、内緒にしなくてはいけない理由が、いまひとつ私には理解出来ませんでした。


たしかに、当時は離婚して母子家庭になるひとは今ほどはいなかったので、噂にはなりやすかったかもしれません。でも、母子家庭だからといって、世間的にみじめなかわいそうな家族というのも少し違うように思いました。そして、母親だけでなく、子供までもそういうレッテルを貼られてしまうというのもおかしな話です。

でも、そのママのご好意自体は理解出来たので、娘と二人きりになった時に、娘の気持ちを聞いてみました。

「ねえ、お引越して、お父さんが一緒のおうちに住まなくなったこと、みんなに知られるのはいや?内緒にしておいた方がいい?」

すると娘は
「ううん。平気。お母さんと暮らしているもん。お父さんいないのに嘘をつくのはいや」と応えました。

私は娘の言葉を信じることにしました。そして、お友達に何を聞かれても正直にこたえればいいと話しました。私は娘が卑屈な気持ちになることの方が心配でしたので、これでいいと思いました。

 

このアパートの1階には三人兄弟のおじさん達がやっている電気工事会社が、いつも開放して作業していのたで、娘が小学校から戻ると「おかえりなさい」と言いながら、あたたかく声をかけてくれました。帰宅した時に、私がいなくても、同じアパートの住人が、地域社会が、優しく見守ってくれたことはどれだけありがたかったことか。

 

そうそう、この私達が住むアパートはおかしな事件がいっぱい起きるところでした。

ある日、私が昼間アパートに戻ったら下に救急車が止まって大騒ぎになっており、聞くところによると、アパートの外壁塗装工事をやるのに、最上階の手すりにロープをひっかけてゴンドラで作業していた職人が真下に落ちたというではないですか。さらに驚くことには、なんと職人が落ちたその上に、4メートルはあるだろう鉄製の手すりが外壁から外れて落ちて来たということでした。そばでフィリッピン人の見習い職人が「オヤカタ、オヤカタ!ダイジョウブカ?」と大声で叫んでました。幸い親方は意識はあるようでしたので、救急車で運ばれていきましたが、その時、真下を子供が通っていたらと考えたら、ぞっとしてしまいました。4階に上がってみると、手すりが完全になくなっていて、少し風が強く吹いたら、真下に落ちそうだったので、子供には絶対に上の階に上がってはいけないと厳重に注意しましたが、やれやれ、何かと心配の種は尽きませんでした。

 

母子家庭時代 「福袋」

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BGM:風(カサリンチュ) なんちゃって

 

娘が小学校に上がった時に、約束したことがあります。

それは、入学時に買ってあげた赤いランドセルと赤い筆箱を6年間使い続けるということです。

その赤い筆箱は、何の変哲もない昭和の香りのするもので、入学時に一般的に購入するタイプのものです。けれども、ほとんどのお子さんは、そのような筆箱はすぐに飽きてしまい、ファンシーショップにあるような可愛いタイプのものに取り替えてしまいます。また、鉛筆も私は個人的に書き味を優先したので、パステルカラーのUniの鉛筆を1ダース用意して、持たせましたが、これもほとんどのお子さんが、ご自分の大好きなキャラクターの絵が入った鉛筆にしてしまったのではないでしょうか。

子供達の持ち物は、入学時に質素だったとしても、周囲のお友達にも影響されて、どんどんとエスカレートしていくものです。また、学用品といえば、親御さん達もお小遣いとは別に消耗品だからとわりと気楽に買い与える方が多いのではないでしょうか。

そもそも、今の時代は、幼稚園の時から、全員が色鉛筆もクレヨンもハサミも何だって持っています。その上、小学校に上がる時に新たに用意したのに加えて、学年が上がるごとに子供の要求するものをどんどんと買い与えていったら、ものを大事にするということが出来ない子供になってしまうように思いました。

私は鉛筆も鉛筆削りで削れないくらい短くなったら、銀色の鉛筆ホルダーに入れて、カッターで短くなるまで私が削ってあげて、大事に使わせました。

けれども消費社会ですから、周囲のお友達が可愛くて魅力的な文房具を持って学校に来るようになれば、そんなキラキラしたグッズが娘はうらやましくてしかたがなかったようです。

 

クリスマスから年が明けお正月になると、子供達はお年玉をもらったので、私は子供達を連れて、いろんなお店が入っている浅草のROXに行きました。

上の階のCD売場のそばに文房具のお店が入っていました。娘はそのお店の前にある「福袋」のところで動かなくなりました。

「お母さん、この福袋の中にはいろんな文房具が入っているの?」と聞くので

「そうね、運が良ければ500円以上の品物が入っているけれども、欲しいものが入っているかどうかはわからないのよ。損するかもしれないし、得するかもしれないし。」

「私、文房具が欲しいから、お年玉で、この福袋を買う!」

と娘は言い出し、ワゴンの中の袋を選び始めました。

優柔不断なところがある娘は、時間をかけてやっとひとつの袋を選び、それを持ってレジに行きました。買物をすませた後は、皆でお好み焼き屋さんに行きました。

家まで袋の中身が知りたくて待ちきれない娘は、お店の中で、早速福袋を開けてみると、どうみてもお店の余り物としか思えないような代物ばかりが出て来ました。可愛い文房具は全くなく、事務用品のような類のものだったので、娘はものすごいショックを受けてしまいました。

「500円損した!お母さん、こんないらないもんばかり。ひどい」

ほとんど半ベソ状態の娘に

「だから言ったでしょ?欲しいものが入っているかどうかはわからないって。これはくじみたいなもんなんだから、文句言ったってしょうがないでしょ。自分でやるって決めたことなのだから」

あまり嘆き悲しんでいたので、思わず500円損して可哀想だったねと娘にお金をあげたくなったのですが、そこはぐっとこらえました。自分で決めたことに責任を持たせることは大事だと思ったので。

 

それから大人になるまでしばらくの間、娘は福袋にすごい拒否反応を示したのは言うまでもありません。お陰さまで、渋谷の109に徹夜で並んで福袋を買うような女子にはならなくてすみました(笑)

 

でも、この話、個人的には、とても泣けるんです。子供にあるものを大事に使わせ我慢することを教える時、親も同じくらいつらいということを子供達が大きくなってわかってくれたら嬉しいと思いました。ちなみに娘は、私との約束を守り、6年間筆箱もランドセルもとても丁寧に使いました。そのことは、娘にとって嬉しいことではありませんけれども、我慢出来たということが、娘の自信に繋がっています。

 

 

母子家庭時代 「クリスマスの衝撃」

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BGM:祈り~涙の軌道(Mr.Children) なんちゃって

 

離婚した年のクリスマスのことでした。

前夫が「サンタさんが、間違えて、こっちにプレゼントを届けちゃったので、持っていってあげるね」と言って届けにやって来ました。

子供達は、すっかりと信じて、アパートの近所で受け取りました。サンタさんは、やっぱりあわてんぼだと言いながら、嬉しそうにプレゼントをかかえて部屋に戻りました。

 

1年生になった娘はひらがなが読めるようになっていたので、サンタさんからのきれいなカードに入っているお手紙を読み始めました。そして、ものすごく大きなため息をつくと、一言

「がっかり」と言いました。

落胆している娘に、私がどうしたのかと聞いてみると

「サンタさんのお手紙に『今年はいろいろあったけれども、これからもいいこでいてください』って書いてあったの。なんで、サンタさんが、いろいろあったって知ってるのよ。それに、いいこでいてって、いっつもお父さんが使う言葉なんだもん。すぐにわかっちゃうよ。あーあ、サンタさん、信じていたのに。がっかりだ」

そういうと、プレゼントの包装を開けている弟に向かって、

「それサンタさんの贈り物じゃないから」

と言いました。

「え?サンタさんのプレゼントだよ」

「違うよ。それ、お父さんが買ったの」

と言い捨てました。

 

全くぐうの音も出ない娘の見解。

また、なんだって、偽サンタさんは、「今年はいろいろあったけれども」なんて大人の事情の一文を入れ込んだのだろうと、前夫に少し腹を立てました。

 

しかし、私は、娘も小学1年生になり、さすがにサンタさんなんてもう信じていないと思っていたので、このあたりのガードが甘かったです。けれども、しっかり者の娘が、まだちゃんとサンタの存在を信じていたということには、逆にものすごく感動してしまいました。そして、そんなサンタさんの夢を、一瞬で壊してしまった大人の罪を反省させられました。

 

弟も姉に「サンタはいないんだ」と厳しい現実をしっかりとおしえこまれ、翌日、実家に行った時には、「昨日、お父さんがプレゼントを持ってきた」とおばあちゃんに話していました。

いろいろあって、もはや、後戻り出来ない母子家庭となっていました。

 

 

 

母子家庭時代 「泣きたくなる出来事」

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BGM:未来へ(ナオト・インティライミ ) なんちゃって

 

今でこそ、エアコンが完備している賃貸マンションが一般的になりましたけれども、昔は設置されていませんでした。そういうのは自分で購入し設置しなくてはならない時代でした。

引越先のアパートの1階は、前々からの私の知り合いの電気工事屋さんが会社として入っていました。近所のよしみで、それまで生活をしていた部屋も、また実家の何部屋かもエアコンを取り付けてもらったので、今回の引越でも一番に以前住んでいたところから撤去して新しく移り住むことになった部屋に設置してもらうことにしました。

そして、いざ、運んで設置という段階で、電気屋さんが私に言いました。

「奥さん、こりゃダメだよ。アンペアが違うから、取り付けられないよ。これを処分して新しいのを買うしかないな」

畳に敷かれた養生シートの上の汚れたエアコンと機材を見つめながら呆然としてしまいました。でも、新しいエアコンを購入するお金なんて、私にはありませんでした。

とりあえず、実家に行き、その話を父にしていたら、何だか、急に、これまでこらえていた涙があふれ出し、情けないことに、私は子供のように泣きじゃくってしまいました。すると、父が言いました。

「ばか!そんなことで泣くやつがあるか!うちの2階の部屋に新しくつけたばかりのエアコンがあるから、それと取り替えればいいじゃないか。」

「いいの?新品をつけたばかりなのに、うちの使っていたやつと交換してくれるの?」

「おまえんところのは容量が大きいタイプなんだろ?こっちは6畳と8畳の2部屋で使うんだけれど6畳タイプのエアコンをつけたから、うちのと交換してやる。泣くな、泣くな」

父の優しさが心にしみました。

嬉しくて、アパートの部屋まで大急ぎで戻り、電気屋さんにエアコンの交換の話をしました。

「すみません。実家の取り外しと取り付けまで面倒をおかけしてしまうのですけれど、お願いします」

「いいよ、いいよ。そんなこと。やってやるよ」

すっごい面倒なことをお願いしているのに、電気屋さんは文句も言わず

「よし、じゃあ、まずあっちのやつをはずしてこっちに持ってくるか」

と言いながら、部屋を出ていきました。

 

そして、真新しいエアコンが取り付けられたところで、「新しい部屋を見る?」と実家で1歳年下のいとこと遊んでいた娘に言うと、ふたりで大喜びしてアパートの部屋を見にやってきました。

どこもかしこも狭く、一応畳の取り替えはしてあるものの、経年劣化している部屋はお世辞にも美築ではないし、ベランダの日当りも最悪だったのですが、娘の口から出た言葉は意外にも「いい部屋じゃない」でした。

私は思わず、娘に「ほんと?いい部屋?」と聞き返すと

「うん、いい部屋」と繰り返し娘が言ったので、私はほっとしました。

ところが一緒について来た姪っ子は、以前まで住んでいたマンションに何度も遊びに来ていたので

「なんで?なんで?前のおうちのがずっときれいでよかったのに。なんで引越しちゃったの?ねえ、なんで?なんで?」

と、それはしつこく娘に迫りました。

娘はなんて応えるのだろう?と心配していたら、

「あのね、ここに住むことに決めたんだから、お願いだからもう二度とそういうこと言わないでくれる?」

と低い声で毅然と言い返しました。姪っ子は、さすがにその口調に驚いたようで、それきり何も言わなくなりました。

私はその時初めて娘が色々と我慢して耐えていること、そして一緒に暮らす私を実は気遣ってくれていることを知りました。

 

そうは言っても、子供達は無邪気なものです。私達がそこに引越して来ると、姪っ子は私がまだ会社から戻らない留守にしょっちゅう遊びにやって来て、娘と仲良く留守番してくれていました。時にはご飯も食べてお風呂も入って、お泊まりもして行きました。

 

大人の事情を子供に説明するのは難しいけれども、時に大人が想像する以上に子供が成長していることに感動させられるものです。気遣いや優しさ、こういうことは、教えるのではなくて、感じるのだなとも。離婚で失ったこともいっぱいあるけれども、失ったからこそ気付くことも沢山あり、それらを糧として強く生きていこうと思った一日でした。

 

その後、父が私に言いました。

「人生はいろんなことが起きるもんなんだ。でもな、今回のこういうつらいことも、親が生きている時に起きたということは、よかったじゃないか。もし死んじゃってたら、もっともっとつらいぞ。お父さんもお母さんも、生きていれば、お前をいつだって助けてあげられる。だから、お前も頑張りなさい」

翌々年、父は癌で亡くなりました。

今の夫がよく言います。お父さんに、今の君や子供達の姿を見せて安心させてあげられなかったのは残念だったねと。

まあ、きっとどこかで私達家族のことを見守っていることでしょう。そして、あの時も、これからも、ありがとうとお礼を言いたい。

 

母子家庭時代 「娘の放課後」

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BGM:Hiver (大貫妙子) なんちゃって

 

小学校1年生になったばかりの娘は、へたをすると幼稚園より早く下校します。息子は保育時間を延長して7時までみてもらえることになりましたが、娘の放課後をどうするべきか、とても悩みました。

学童保育というのもありましたけれども、学童のお迎え時間に私の場合はとても間に合いそうもなかったので、その選択肢はないと思いました。また、娘も、身体を動かす運動はどちらかというと苦手で、家で絵を描いたりしているのが好きな子だったので、お家でひとりでいるか、おばあちゃんちに行っていると言い出しました。けれども、大人がそばにいないで、ひとりで部屋にいる状況は心配だし、実家には遊べる従姉妹達はいるけれども、毎日となると兄嫁にも申し訳ないし、どうしたものかと悩みました。

幸い、住んでいたアパートのすぐ近所に、私が小学校の時に勉強を教えてくれた学習塾がありました。といっても、今のような受験塾ではなくいわゆる補習塾です。私もはるか昔、そこに週3日通って、算数と国語と社会を習っていました。色々と考えあぐねて、ある日、私は塾の先生のところに娘を連れて相談に行きました。

塾は関東大震災でも焼けなかったという古き良き日本の民家で、私が通っていた当時そのまま建っていました。塾の扉を開け、お声をかけると、奥からなつかしいお姿の先生が出ていらっしゃいました。私は娘を紹介し、今の現状を簡単に説明しました。すると、

「まあ、もう、こんな大きなお嬢さんがいらしたのね。あなたによく似ているわね」

と娘に私を投影して、先生も私をなつかしんでくださいました。

先生に塾のことを伺うと、ごくわずかな生徒だけ、学年に関係なく勉強をみていらっしゃるとのことでしたので、うちの娘もお願いできないか、たずねてみました。すると、小学校の1年生からお勉強を教えたりはしていないのだけれども、とてもしっかりとしたお嬢さんのようだから、学校の宿題も一緒にみながら、お勉強をみてあげましょうとおっしゃってくださいました。

先生は私を教えていた時よりも、ずっとお年をめしていらっしゃいましたけれども、あの当時のまま、私にも娘に対しても、とてもきれいな日本語でやさしくお話する先生でしたので、娘もいっぺんで気に入ったようでした。

これで、週3日は、学校から戻ったら徒歩1〜2分のところにある塾に通えるようになり、残りの2日は、宿題が終わったら実家に行ってもよし、ということにしました。

実家の父は、孫達を不憫に思い、夕飯だって食べていけばいいんだと言ってくれましたけれども、私はそれだけはお断りしました。何故なら、ご飯を一緒にいただくというのが唯一のだんらんだと思ったからです。

母親が仕事から戻って大慌てで夕飯の準備をしている横で、ふたりの子供達がテレビを観ながら、笑っている。バタバタだけれども、子供達のために一生懸命ご飯をつくる。テーブルについて、いただきますをしてから、学校のこと、遊びのこと、なんでもよくて今日一日あったことを子供達と一緒に話しながらご飯をいただく。終わったら、食器の片付けを手伝ってもらい、その後は一緒にお風呂に入る。お布団を敷いて、川の字になって寝る。

そういうささやかな日常が、私の生きがいでした。ぜいたくをするでもなく、ただ毎日を規則正しく生活する、そういう日々の暮らしの大切さを子供達に教えることが、親のつとめだと思ったからです。片親の家庭だからと恥ずかしい思いを子供達にさせてはいけない、両親揃っている家庭と同じようにあたたかい家庭をつくりたかったのだと・・・いやいや、そんなたいそうなことじゃないかもしれませんね。

私自身が子供と一緒に生活することが楽しかった、多分それが最高の幸せだと感じていたからだと思います。世の中には子供がほしくても出来ないご家庭も沢山いらっしゃいます。その中で、神様が私を選んでこのふたりの子供達を授けた、と考えると、私はこの子達によって、親にならさせてもらったんだなあ〜と、つくづく思い、毎日を感謝し頑張れるのでした。

母子家庭時代 「保育園の帰り道」

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BGM:見上げてごらん夜の星を (坂本九) なんちゃって

 

保育園のならし保育も終わり、いよいよ延長保育になりました。

仕事を終えて、メトロに乗り、駅から全速力で保育園に向かいます。7時までの延長保育がある保育園なのに、入園してみたら、3〜4人が6時半くらいまでいましたけれども、最後の最後までの居残りさんはうちの子だけでした。

通常の保育時間が終わると延長の子供だけは別の教室に移されます。少し早めの6時半くらいに行くと、赤ちゃんと息子が子供番組のテレビをつけて待っていました。その赤ちゃんもお迎えが来てしまうと、保育の先生ひとりとうちの子だけになるのした。

昼間の喧噪が嘘のように静まりかえった保育園は外灯と玄関のほんの一部しか電気がついていません。園庭の鉄門も施錠されているので、自分で開けて敷地内に入り、走って入口に向かいます。玄関を開けると、暖房もきいてない寒いホールで、すっかり帰り支度をして靴まで履いている息子が冷たい床に腰掛けて待ってました。保育士の先生が「ほら、お母さんがお迎えにきたわよ。おかえりなさーい」とお迎えしてくれました。

そう、幼稚園と違うのは、子供達は保護者がお迎えに来ると「おかえりなさい」と言ってくれるのです。こんなに遅くまでひとりで待たせてしまったのに「おかえりなさい」と嬉しそうに出迎えてくれる我が子に、胸がキュンと痛みました。

でも、私は子供を保育園にあずける時に、誓ったのでした。私が一生懸命働かないと子供達を育てることは出来ないのだから、普通の子供達と違う生活をさせているけれど、それを不憫に思ったり罪悪感を抱くことだけはやめようと。そういう気持ちを少しでも持てば、子供は逆に惨めな気持ちになると思ったからです。

保育園の帰り道、息子は昼間の保育園で遊んだこととかを話してくれました。お腹がぺこぺこだったけれども、焦らせることはせずに、ふたりして手をつないで寒い冬の夜道を歩いて帰りました。

澄んだ夜空にはきれいなお星様が光ってました。すると息子が私に質問したのです。

「お母さん、幼稚園のお迎えの時は太陽が出ていたのに、保育園のお迎えの時はどうしてお星様が出ているの?」

私は夜空を見上げながら、少し考えてからこたえました。

「そうだね。なんでだろう。でも、お母さんは、お星様がキラキラしている道をナオキと一緒にこうやって手をつないで帰るの楽しいなあ。ナオキはそういうのいや?」

「ううん!楽しい!」

「そうだよね!楽しいよね!」

子供は、お母さんが楽しいと言えば、楽しいのだと思いました。だから、保育園卒園するまで、私はこうやって息子とキラキラした時間を過ごしたのでした。

 

母子家庭時代 「保育所探しと仕事探し」

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BGM:いつか晴れた日に山下達郎)なんちゃって

 

母子家庭になるということは、仕事をしなくてはなりません。上の娘は小学校でしたが、下の息子は幼稚園の年中でしたので、まず保育時間の長い保育園にあずけなくてはなりませんでした。

早速、地元区役所の児童保育課窓口に相談に行きました。対応してくれたのは、40代くらいのベテランの女性でした。私は自分の今の実情を話し、パートではなくフルタイムで求職活動中なので、あずかり時間が長い延長保育のある区立の認可保育園の入園を希望していることを伝えました。その際、新年度の募集ではなく、途中入園ですぐにでも入りたいと言ったところ、1月からほんのわずか空きが出るかもしれないということで、その空きが出る保育園の中で第一希望から第三希望まで書いて書類を提出するように言われました。

家に戻って保育園の資料を読むと、7時までの延長保育のある保育園はたったのひとつしかありませんでした。あとは6時までだったのですが、希望を書いて提出ということだったので、しかたがなく第二まで書いて提出し、後は結果待ちをするしかありませんでした。

保育園の相談の後、本格的に求職活動を始めたのですが、驚いたことにフルタイムの女性の求人を見てみると35歳までがほとんどで、38歳の私がまともな企業に中途で受入れてもらえるということは奇跡でも起きない限りないように思えました。それでも、それはもしかしたら目安のラインかもしれないと楽観的希望を持ち、あちこちに履歴書を書いて送りましたが、ことごとく「残念ながら」の通知が来たのでした。

友達に相談したら、こういうときは片っ端からコネを利用するしかないと言われ、少しでも繋がりのあるところを頼りに電話しまくりました。すると、面識はないのですけれども、友人の知人の先輩にあたる方が相談にのってくださるというので会いに行きました。

その方は、私の履歴書を眺めて、

「ひどいね、これは。あのさ、君の年で、結婚前にこんなに転職していたら、雇う側に印象悪くするだけだよ。大学出て会社入って腰掛けで辞めましたっていう方がまだましだよ。履歴詐称したら?」と言われました。

私はやりたいデザインの仕事のスキルアップのために転職したし、実際に転職先ではその当時で1回のボーナス100万も取ったほど頑張っていたのに、仕事内容など全く質問なしでした。ところが、2、3日したら、その方から電話があり、某企業の人事担当者が会ってくれるそうだから行ってみるといいと言われました。とても感じの悪い言い方をするひとだったけれども、お声をかけてくださったことに感謝して面接に行ってみると、人事と経理の方がふたりいる会議室に通されました。

「今から離婚して母子家庭になるの?ふーん、経済学部経営学科卒なんだ。なのに、なんでまたデザイン会社なんて入ったの?普通は事務職につくでしょ。」

「いえ、デザインがやりたかったので」

「でも、うちでは経理が出来る人が欲しいんだよね。君さ、経営学科で簿記とかの資格とってないの?資格ないんだったら、今から学校入って簿記を勉強し、資格を取りなさい」

「あの、離婚してこれから子供ふたりを育てていかなくてはいけないから仕事を探しているんです。今から授業料を払って簿記を習えということは、その資格を取るまで、私と子供はどうやって生活したらよろしいんですか?」

「そんなの、親がいるんでしょ。面倒みてもらえばいいじゃない。正直、子供かかえてじゃどっちみち仕事なんて出来ないよ。親にみてもらえばいいんだ。」

 

この人達はダメだと思いました。最初に相談にのってくれた人と同じタイプの人間だって思いました。

 

そんな求職活動をしている時に、保育園が決まりました。ところが、決まった保育園は第二希望の保育時間が6時までのところでした。

ちょうどその頃、友達が南青山にあるデザイン会社で経理をしていた女性が出産のために退職するのでその後がまにどうかという話が転がりこみ、私はそこに唯一の希望の光を感じていました。けれども、先方の社長さんが、多忙なため、私との面接を業務が終わる年末にして欲しいと言われて待っている状態でした。

頼りはその会社しかないと思っていたのですけれども、7時までの延長保育でないとその会社の通勤は難しいと思いました。

そこで、既に保育園に入園しているお母さんに相談すると

「ばかねえ、そんな第二希望の保育園の名前を書くからよ。第一しかなければ、第二希望を書いてはダメなのよ」

と言われ、最初に教えてくれたらよかったのにと、ひどく落ち込みました。が、いやいや、落ち込んでいられない!交渉するしかない!と直談判に区役所に通知を持って行きました。多分、すごい血相だったと思います。

 

担当の方に、私は言いました。

「求職活動では年齢で厳しいものがあり、ことごとくはねられました。今唯一希望の光が持てる会社の面接待ちだけれども、その会社はデザイン事務所なので始まりが遅いから勤務時間は6時までなので、退社してからすぐに駆けつけても子供の引き取りは7時になってしまうんです。第二希望の保育園だったら、今決まりそうな会社も、また断られます!お願いです!何がなんでも第一希望の保育園に入れてください!」

すると、担当の女性が、児童保育課の一番上席に座っている課長を見てから「今上司に相談するので待っててくれる?」と言い、私はその場でしばらく待たされることになりました。私の視線の先にこちらをチラチラ見ながら話をしている様子が見えました。しばらくたってから担当者が私の前に座ると言いました。

「あなたの事情はよくわかりましたので、もう定員いっぱいだけど、7時までの延長保育の○○保育園への入園を課長が例外で認めて下さいました。よかったわね!けれども、定員枠を越えているので、おそらくあなたのお子さんのロッカーはご用意出来ないかもしれません。それでも大丈夫?」

「そんな、ロッカーなんていりません!洋服入れるカゴさえあれば、うちの子はそういうことを気にしません!ありがとうございます!」と私は半泣きで感謝の言葉を言いました。

そこに至るまでに、この担当者が我が家のアパートまで実際に調査にやって来て、その時、私の実情をとても理解して下さったことが、保育園入園の決め手になったのだと思います。当時は待機児童のポイント制というのはなかったので、人情に訴えるというのは大きなアドバンテージになったかと思います。そもそも、母子家庭も今よりも稀な時代でしたから。

 

そうして保育園も決まり、年末のデザイン会社の面接には、心に余裕を持って対応することができました。南青山にある大きなビルの1室にあるデザイン事務所は、10畳くらいのスペースとユニットトイレバスがついた小さな会社でした。面接してくれた社長さんはだいぶ遅刻をしてやって来ました。

「ごめんごめん。昨日が忘年会だったので、つい飲みすぎちゃって。履歴書みたけど、素晴らしい経歴で、僕よりすごいんじゃないの」と、笑いながら言いました。話の流れで、採用になりそうだなと実感でき、私はくつろいだ気持ちで面接出来ました。

翌日、年明けの5日から来てくれる?と電話がかかりました。感謝の気持ちでお返事をさせて頂き、大急ぎで区役所の担当者に電話で報告すると、年明けから「ならし保育」をして、少しずつ保育時間を長くしていきましょうと言い、電話の向こうの声もとても嬉しそうでした。

あちこちぶつかりながら前に進む危なっかしい母子家庭時代の本番がスタートしました。