今日もぽれぽれ

「ポレポレ」とはスワヒリ語でのんびり、ゆっくりという意味です♡

ちょっと自分のこと

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今日は、ちょっと自分のことを書こうと思います。

最近、漫画を描き始めましたが、もともと私は中学と高校と美術部にいましたので、デッサンも一応はやらされて来ました。そして、大学進学の時に美大に行きたかったのですけれども、美大って学費が高かったり、卒業しても就職出来ないのではという心配の刷り込みを親と兄にされ、仕方がなく普通の大学経済学部に入りました。でも、どの授業も眠くなるし、興味を持てることがほとんどありませんでした。そんな中、経営学科にコンピュータのゼミがあり、皆が就職に有利だという有名先生のゼミをとる中、私は自分の興味の持てるゼミに進みました。しかしながら、当時は、まだパーソナルコンピュータの時代ではなかった時代に、ゼミの先生は素晴らしく先見の明があり、コモドール PET 2001だったかと思うのですが、オールインワンタイプのパソコンを見せてくれました。私はこれからは絶対にパソコンの時代が来るだろうから、将来はパソコンを使ってデザイン関係の仕事をしたいと密かに思いました。ただ、まだ一般的にはパーソナルコンピュータは普及しておらず、私はFORTRANBASICというコンピュータ言語を学んだだけでした。

大学も4年になり皆の就職活動が始まり、私も親に勧められた企業に2社ほど受けてみましたが、試験で見事に落ちました。落胆している親に「これからは自分の好きなことをやりたいから、仕事も自分でみつける」と宣言しました。もともとOLとかの仕事に興味がなかったので、好きなデザインをやれるチャンスとばかりに、まずはアルバイトから始めようと、東銀座の喫茶店の上を上がったところにある8畳くらいの版下を作るデザイン事務所(高卒の社長と中卒のデザイナーの男二人しかいない)に入りました。お給料は雀の涙程度です。仕事は乃村工藝社という大手の施工会社の下請けの版下製作ばかりでした。デザイナーがデザインしたラフスケッチをもとに、正確な版下(印刷入稿するための白い厚紙に墨1色で作る原稿)を作るという仕事です。デザイン学校を出ていなかった自分にとっては、お金を頂きながらデザインの基礎を学ベル絶好のチャンスでもありました。ロットリングで線を引いた中を墨汁と製図用インクを半々に混ぜた墨をつけた筆で塗っていきます。万一はみ出してしまったら、白のポスターカラーで、溝引きといって定規の溝に入れたガラス棒と筆をお箸を持つ要領で二本同時に動かしながら補修するんです。そうそう、あと、簡易暗室の中にトレスコ(呼び名)という機械があり、インスタントレタリングで作った英文字や当時の写植文字を、版下のサイズに合わせて拡大縮小させて印画紙に紙焼きつける作業もしました。これが暑い季節、はんぱなく大変な作業だったんですけれど、私にとってはどれも初めてのことで楽しくて、好きな仕事をやっているという実感がしました。


大学卒業後に経済学部の女子の食事会があり顔を出すと皆一流企業に就職していて、とても綺麗な格好で来ていました。私が自分の仕事の話をすると、いぶかしげに私を見て、「いいわね〜、ひとと違った生き方できるひとは!」とイヤミを言われました。でも、皆のやっている話を聞くと、わからない資料の計算とか、応接室へのお茶出しとかだったので、自分にはそんな仕事はむしろ出来ないように思いました。たしかに、お給料も低いし人間関係もこれまで生きて来た人達とは全く異なる世界の人達だったけれども、その頃の私は、なんだかとてもワクワクしていました。これから、もっともっとデザインの勉強をしたいと、今度はCIという企業イメージを創る会社に移りました。
ところがそこでは企画採用でした。美大を出ていないということは、デザイナーのお仕事をさせてもらえないんです。せっかくデザイン会社に入ったのに、真近で素晴らしい企業のロゴデザインが生まれていく過程を見つつ、プレゼンのお手伝いは出来ても、デザインはさせてもらえないという不完全燃焼の毎日でした。世の中、そんなに甘くはなかったのです。私は来る日も来る日も会議室でクライアントとの打合せメモを取り、その会議録音テープを聞きながら会議録を丁寧に起こすという地道で疲れる作業とプレゼン資料の準備ばかりでした。

その後、その会社も退職し、前の夫と結婚、出産、離婚となり、二人の子供をかかえて母子家庭として生きていかなくてはならない、となった時、表参道にある小さなデザイン会社がひろってくれました。おりしも、デザインも出来るパソコンが世に出たばかりの時代でした。入った会社は、やっぱり社長とデザイナーの二人だけでしたが、電算写植を疑似フォントで映し出すディスプレイを見ながら本格的な文字組版をするパソコン(エディアン)を購入した直後でした。私は、ここでも美大を出ていないという理由と、また、子供を保育園にあずけていたので定時で帰るという条件だったため、デザイナー採用ではなく経理と総務(小口の計算と銀行や外注先に振込や手形をもらいにいく仕事)の仕事でした。
ところが、入社後すぐに、購入したパソコンの講習会があり、そこに1週間通い操作を覚えるという機会を得たら、会社の他の人よりも覚えが早かったので、だんだんとデザインの仕事をパソコンでやるようになったのでした。その後、AppleMacも入りDTP入稿までするようになりました。気がつくと、将来はパソコンを使ってデザインの仕事をしたいという夢が実現出来ていました。

自分に何が出来るということは言えなくても、なんかこういうのが好きかもしれない、という程度のイメージで始めてもいいんじゃないかなって思います。時に方向性が少しずれちゃったかな?という事態に陥ったとしても、とりあえずやり続けていくと、少しずつやりたい方向につじつまが合って来たりするから不思議です。ただ、仕事となった場合は、お金を頂くものですから、楽しいことばかりではありません。どの仕事も振り返れば色々と困難なこともありました。また組織というのは人間関係を伴うので、そういう面でのつらい思いもしました。けれども、自分の選んだことをまずやってみる、そうしていくうちに、不思議とやりたい方向が自分の中で見えて来るような気がしました。

3年くらい前だったか、仕事がなくて暇だから「ハンコ広場」の店先でアルバイト募集していたので、とびこみで始めてしまいました。パソコン画面で名前を入力し、書体とハンコの種類を選び、文字を枠内にデザインしたら、小さな彫り機にツゲとか素材の木軸をセットしスタートボタンを押すと、キリキリと音を立てて、あっという間にハンコが彫れてしまうんです。面白くてそのバイトに行き始めたら、家族も友達も何でまたハンコ屋さんにと驚いていたけれど、面白いものを見つけたら、まず飛び込んでみるというのが自分の性格なんですね。ハンコマスターになったら、本業の仕事が忙しくなってしまい、そのバイトは止めてしまいましたけれども、楽しかったです。なんだっていいんですよね、面白いと思ったら、キャッチする、まずはやってみる、一度しかない人生だから、楽しまないと、って思います。

そうそう、ただひとつ疑問に思うことは、なんで日本人って美大とか美術の専門学校とかを出ていないとデザイナー採用しないんでしょうね。美大出でないからこそユニークなデザインをするひともいるだろうし、そもそもクリエイティブな仕事に美大出身者しかデザイナーとして認めないという風潮は、とてもおかしな話だと思います。漫画の勉強していない私だって漫画を描けるようになるのだから、やる気さえあれば、ひとはなんでも出来るようになっていくものだと思います。
実は私、これでも「美大出てないコンプレックス」という呪縛に悩まされていたのです。でも、今漫画を描き始めて、やっとその呪縛から解き放たれた感じがいたします。
下手でもなんでも、描いていりゃー、何とかなる!そんな気がして来ました。
これからも、拙い漫画ではありますけれど、よろしくお願いします。

かなり長文、最後までおつきあい頂きありがとうございました。