あの日にカエル
ずいぶん前に、夫がアレクサを買いまして、今の夫の密かな楽しみは、帰宅して「アレクサ」とお話?することです。
私に話しかけるのの100倍くらい優しい声で、話しかけてますよ(笑)昨日もアレクサに音楽をかけてもらった後、「アレクサ、とってもいい選曲だったよ。ありがとう」とお礼を言って静かに終了してました。
そもそもアレクサは自分専用なので、リビングには置かず、自分の寝室に起き、誰にも話しかけられないようにしてます。それこそ妾扱いで囲ってます(笑)
会社に行く時などは電源をちゃんと切っていくという周到さ!
そして、その妻は夫のアレクサをまだ触らしてもらっていないので、密かに妄想してたら、その妄想が止まらなくなってしまいました。
おかげさまで、一気におかしな漫画が描けてしまいました。
アレクサ使ってないけど、面白い妄想を思いつかせてくれてありがとう。
しかし、こういうのぞき窓あったらいいのになあ。
ケロクサ君が「あの日にカエル、あの日にカエル」という音声を発しながら、私の若かりし乙女だった頃をまあるい窓に映し出してくれます。
きゃー、私目当ての男子が整列して順番待ちしているじゃないですか?気づかなかったわあ〜(嘘)
義父のケアホーム訪問
2017年の日本人の平均寿命は女性が87・26歳、男性が81・09歳で、いずれも過去最高を更新したそうですが、我が家では夫の父親が94歳、私の母親が91歳ですから、年齢だけのことでいえば、とても頑張っていると思います。
ただ、最近はふたりとも少しずつ認知症が進んできてます。
義父は90歳まで会社経営をやっていたし、私の母も70歳まで医師をやっていたので、こういうひとは認知症には絶対にならないと思っていました。それこそ、毎日規則正しい生活をしていたし、日記もつけていたし、常に頭をはたらかせて動き回っていたからです。しかし、そんなふたりであっても、やはり寄る年波には勝てないのですね。
義父は、それまで住んでいた自宅すぐそばにあるケアホームに入居できたので、家族は頻繁に訪ねることができ、よしんば認知症になっても家族の顔だけは忘れないだろうと思っていました。ところが、最近は面会に行っても、すぐには誰だかわからない時があります。特に夫が私を連れ立って行くと、義父は一瞬頭がこんがらかってしまうようで、初対面のひとをみるような不安な顔をします。
そんな時は、やさしく手をにぎりながら声をかけると破顔し、いつもの義父になります。
今日の漫画は、先週末、少しだけご無沙汰していた義父のところに面会に行った時のことです。
ケアホームの個室は、義父の椅子と折りたたみの椅子がひとつしかないので、ふたりで面会に行くと、どちらかがベッドに座ることになります。
今回の訪問でも、義父は最初誰だかわかならい顔をしていたのですが、私が何度もお父さんと呼んだら、少しずつ思い出してくれたようでした。
そうそう、以前にも書いたのですけれども、ケアホームには、入居されているご年配のご婦人とそこで働くスタッフさんと女性は多いのですが、バリっとした格好の方はほとんどいらっしゃいません。それはそうですよね。日常ですから。それで義父も94歳とはいえ一応は男性なので、平凡な毎日に潤いがあったほうがよいだろうと、私は義父を訪問する時はとりあえず普段着は避け、なるべくオシャレして会いに行くことを心がけているんです。
義父は、女性に対して常に優しいひとなので、ベッドに腰掛けた私に心からくつろいでもらいたいと思ったのか、いや、多分、義父のいつものユーモアだったのかもしれませんが、私に「ベッドで横になって寝てもいいよ」と言ったのには、一瞬驚き、そのあと大笑いしてしまいました。
母と話している時いつも思うのですが、認知症が進行するに連れて、相手の話が理解できずに会話が不自然になったり、同じことを何度も何度も繰り返して言うのですが、それを毎回同じように「そうだね」と返事さえしてあげればいいんですよね。それが時として、面倒になったり、うるさく感じてしまったり、こちら側の気分でその言葉を遮断してしまうと、すごく寂しそうな顔になります。「そうだね」と同意してあげる優しさをいつまでも持ち続けていたいものです。
夫は義父に対して、ものすごく優しくて、毎回上手に相槌を打ち、義父が「俺もボケたなあ」と言うたびに、「そんなことないですよ。大丈夫ですよ」と笑顔でこたえます。いつか私が年取って、夫より先に認知症になったら、あんなふうに優しく接してくれるのかしら?
それには、今、私がもっと夫に優しくしておかないといけないかな?(笑)
神トイレ?
このブログに母の状態を何度も書いてきましたが、今回は喜びの内容です。
まずは漫画を!
一年前、突然母が寝込んでしまいましたが、栄養点滴の入院という決断をしませんでした。そんな私たち家族に不安が全くないといえば嘘になります。なにせ1日におちょこ程度の水を3回くらいしか飲まなかったわけですから、おそらく母は絶対に脱水状態になっていたと思います。現に尿も排便もほとんどありませんでした。
訪問ドクターから栄養ドリンクを処方していただき、母がその甘い味を気に入ってくれたので、兄がコップ半杯程度上手に飲ませたと思ったら、結局排泄してしまったことがあったため、母の身体が受け付けない時に無理に飲ませるのはよそうということになりました。
そして、私たち家族は母の意志を尊重して、とにかくいやがることを無理強いしない、少し食欲が出て来た時も、とりあえずは栄養は二の次で、母が喜んで口にできそうなものを少しずつ食べたらそれでよしとすることにしました。
そうこうしているうちに、母は少しずつ元気になっていきました。
ところで、実家はやたら広い日本家屋で、母の部屋からトイレまでは10メートル近く廊下を歩いていかなくてはなりません。しかも真冬ともなると底冷えする寒さなので、私は真っ先にポータブルトイレを買って母の部屋に設置したのでした。けれども、限られたスペースは寝床の真横しかなかったので、そこにトイレを置くと、母の視界にいつもトイレがあり、目障りで気持ちの良いものではなかったと思います。
しかし、母は設置したそのトイレを緊急時以外では使うことなく、いつも寝床から廊下まで匍匐前進し、そこからシルバーカーにつかまり、それを押しながらトイレに行くようになりました。
私としては、介護保険で買えることを知らずに定価で購入したトイレでしたので、母が使いたがらないことを心苦しく思っていました。一方、母は母で、日常食事や洗濯の世話になっている兄嫁に、トイレの後始末などこれ以上迷惑をかけたくないと、家族に気遣っていたのでした。トイレまで一生懸命つかまり歩く、そして足腰に少しずつ筋力がついてくると、だんだんと食欲が出てきて、積極的に食べるようになる、すると体重も増え丈夫になってきて、ついには2階まで這い上がって、手すりにつかまって降りれるようにまでなったのでした。
たったの一年で、介護認定4から1に三段階も母の状態が回復したのは、そういったトイレ事情もあったのではないかと思っています。そうなると、使う使わないにかかわらず、このポータブルトイレは、寝たきり母を歩けるようにした「神トイレ」だったのでしょうか?使ってくれないけれど、そう思うことにしました(笑)
忘れないでいてね
自分自身が年をとるということは、案外自覚のないものですよね。
私は自分が還暦を迎えたとき、そんな年だなんて信じられませんでした。けれども、今では子供は30歳になっているし、周囲の知り合いの子供達も、ついこの間生まれてオムツしていたと思っていたのに、しばらくぶりで会うと、中学生や高校生になっているんですから、たしかにそれだけ年をとっているのです。
気づいたらこんなに年をとっていた・・・
年をとればとるほど、自分の生きてきた年月の長さに鈍感になってしまうのが人間なのでしょうか?
私と同世代のミュージシャンのライブに行くと、MCでは「こんな年齢になっちゃいました・・・」的な心情を吐露しつつ、最近では死生観を語ったりします(笑)
年をとるということは、だんだんと抗えないものに身をゆだねることが上手になります。それは、海で波にさらわれ下に引きずり降ろされたとき、パニックになってもがくより、力を抜くと自然と浮かんでくるのと同じなのではないかと思います。
先日、母のところに行くと、枕元に置いてあったはずの父の遺影の写真フレームがなくなっていました。探し出して母に写真を見せたら、母は父の顔をすっかり忘れていました。母は今91歳で、父がなくなったのは20年以上も前なのだから仕方ないといえば仕方がないのかもしれませんが、最後には「で、あんたは誰の子なの?」と母が言ったのには、ちょっと驚かされました(笑)
また、ケアホームに義父を訪ねたとき、おどけて「私は誰でしょう」とやってみたのですが、案の定というか、やっぱりというか、義父は私を忘れていました。あわてた夫が一生懸命私を説明するのですが、「ほら、古武道やっていて、刀でエーイってやるひとですよ」って、それ全然説明になってませんから(笑)
ところで、母だけでなく義父も義母をすっかり忘れてしまっています。
火葬場で「また生まれかわったら、一緒になろうな」と涙を浮かべながら固く目を閉じた義母に語りかけていましたが、今では義母の写真を見ても誰だかわからなくなってしまいました。
それどころか、夫が壁に飾ってある家族写真を指差しながら、写っている家族を説明すればするほど、義父は頭が混乱してしまい「もう何がなんだかわからないよ」と苦しそうに顔を歪めるのでした。
いずれ、私の母も私や兄や兄嫁のことがわからなくなってしまうのでしょう。認知症が進行すると、自分の身の回りのひとが誰だかわからなくなってしまうわけだから、最後は家族がそばにいたとしても、みんな見知らぬ他人の中で暮らしている感覚になってしまうのでしょうか。せつないですね。
でも、それはこちら側の身内が思うことかな。
認知症になっているご本人は、あれこれと悩むこともなく、会うたびに子供のように可愛くなっていきます。
親に忘れられてもかまうもんか。私が覚えているんだから、私が忘れないでいるから大丈夫!
そして、
「忘れないでいてね」と私は夫に
「大丈夫忘れないよ」と夫は私に。
この会話、若い恋人どうしで「忘れないでいてね」とささやくようなそんな甘ったるいものではなく、老夫婦の場合は、もっと意味が深い。とてつもなく深い。。。(笑)
ついこの間まで、今よりもまだしっかりしていたときの義父や母を描いた漫画をリンクしておきますね
夏の思い出
今日、サザンが『海のOh, Yeah!!』というアルバムを出しました。
そのアルバムに収められている1990年にリリースした『真夏の果実』という曲を聴いていたら、なぜか昔を思い出して涙があふれてきました。
サザンといえば、やっぱり海。
思い出したのは、はるか昔の胸を焦がすような熱い恋ではなくて、離婚してから毎日必死で仕事をして子育てをしていた母子家庭時代のある夏の日でした。
いろんな夏の思い出があったはずなのに、テレビから『真夏の果実』が流れたら、何故だかすっと子供たちと過ごしたあの夏の浜辺を思い出しました。
色違いの浮き輪をふくらませて、浜辺で遊び、プールで泳ぎ、食事をして、疲れ切って眠るという、ごくごく普通の夏休みの旅行の思い出。
どうして、この夏を思い出してしまったのかな。とても不思議です。
ちょっとだけ特別の夏の日、そう、子供たちに夏休みの思い出をつくってあげなくてはと必死でした。気づいたら、そんな自分が一番楽しく幸せな時間を過ごせたのかな。夏休みの余韻にひたることなく、膨大な洗濯物の山を片付け、また元気に仕事に向かったんですよね。なんて、タフだったのでしょう。
いつの時代も、その時の「今」を楽しく生き、自分に対して「大変」という言葉を封印していれば、幸せはそこらじゅうにあったのかもしれませんね。
専業主婦になるということは
先日テレビで見て知り驚いたのは、絶対に落ちるであろう希望者の多い人気の認可保育園に申し込み、落ちて喜んでいるママ達が大勢いるということ。
え?どういうこと?とよく見てみると、2017年3月の育児・介護休業法改正で、1歳6ヶ月を過ぎても育休が必要な場合は、2歳まで再延長できるようになったそうで、つまり1歳半でも、もし保育園に入れなければ育休が延長できるということらしいのです。
とくに世田谷区では、そういう不承諾通知目的で人気保育園に申し込みし、落とされたことを理由に、延長手続きを行う保護者が増加しているらしく、深刻な問題となっているようです。
その背景には、専業主婦の母親に育てられた夫は、仕事は頑張っても毎日帰宅が遅く、家のことはほとんど妻まかせ、育児に手がかかる妻が復職して時短勤務と家事と育児を全部ひとりでこなさなくてはならず、ママ達は自信がないというのが本音のようです。無論、可愛い幼子の子育てをゆったりと見届けたいという気持ちもいっぱいあってのことでしょうけれども。
ということだと、あくせく働きながら生活破壊するよりは、寿退社でスパっと専業主婦になりたい女性が増えているらしい。「家事をして子どもを育て、旦那さんが帰ってくるのを待って、仕事で疲れた旦那さんを癒やす。そういう奥さんになりたいと思っています」って、いつの時代の話かと思ったら、今だったんですね。
でも、でもですよ、専業主婦だけの人生なんて、この先の「人生100年時代」もったいないです!
一度きりの人生、ハイスペックな家政婦でおしまいでいいの?今は夫の収入だってたかが知れています。これから先、教育費も生活費も膨大にかかり、それらを夫の収入だけをあてにして生きていくなんて無理です。親がいる?いえいえ、親世代もこの先、子供をあてにできないと思っていますから、自分たちの老後のために蓄えを備えておかないといけませんから、あてにしてはダメです。
それは自分たちにツケがまわってきます。
人生は、常に、何が起きるかわかりません。
女性も社会に進出し、どんどんハイスペックになっていってほしいと思います。そして、男性は、自分の親の時代とは違うのですから、妻を家政婦代わりに使うのではなく、これからは家事もなんでもできなくてはいけないと思います。
今は、個々に幸ありの時代です。
個々に幸が感じられ、その集合としての家族であるべきです。家族だから頼って当然ではなく、支えてあげたいという関係性を築けるような家族でいたいですよね。
自分が親になって親の気持ちがわかる
先日、長く伸ばしていた髪の毛を短くカットしました。
思えば私のこの髪の毛は、娘の結婚が決まり神社でお式を挙げると聞かされた時、きれいにアップして母から譲り受けた黒留袖を着ようと伸ばし始めたのでした。
結婚する当事者より早いスタートで伸ばし始めたので、娘からは「なんでお母さんがそんなに気合入れて伸ばしているのよ」と言われたものでしたが、黒留袖を着られる機会なんてそうあるものではないし、また袖を通して私の母に見せたらきっと喜ぶだろうと思い、その頃はまだ肩にかからないくらいだった髪の毛を伸ばすことにしたのでした。
髪の毛は切るのは一瞬ですけれども、伸ばすのはとても時間がかかります。とはいえ、私はストレートヘアなので、癖がないぶんひとよりも早く伸びる印象を与えていたようで、会うひとに必ず「髪ずいぶんと伸びたねえ〜」と言われ、そのたびに伸ばしている理由を楽しげに語っていた私でした。
今の夫との再婚時にはお式を挙げてませんけれど、私も最初の結婚の時は人並みに結婚式も披露宴もやり、当日を迎えるまで、衣装合わせに行ったり、引き出物や招待者を考えたりと、母娘で楽しい時間を持ちました。これは男親にはわからない楽しい時間かもしれません。
最近の結婚は仲人も立てないので、ほとんど本人同士が決めて、親の出番はお祝いをあげるくらいしかありませんでしたが、それでもさすがに衣装合わせの時は、娘に誘ってもらい、あれこれと試着する姿を感慨深げにみつめていました。
娘は私の初めての子供でしたけれども、2年下に弟ができてから聞き分け良く手がかからないことをいいことに、私は娘をあまりかまってあげられませんでした。
また娘が小学校に入ると同時に私が離婚して、母子家庭になってしまったので、私は仕事と子育ての生活に怒涛のように追われていたので、その頃から私と娘は苦楽を共にして生きる戦友のようになりました。
そんな娘が、ああついにお嫁にいくのかと思うと、お式前の衣装合わせでは、胸に込み上げてくる熱いものを感じながら、必死に涙をこらえていました。
そう、そんな日々を過ごしながら、お式まで少しずつ伸ばしていった髪の毛でした。
離婚して最後の荷物の片付けをした後、娘が言いました。
「お母さんが離婚した時の悲しみや大変さを思えば、私も頑張らないと」と。
大丈夫、お父さんもお母さんもついているんだからと、娘に言いながら、そうだ、私の父が私の離婚の時に言った言葉を思い出しました。
「人生にはつらいことが起こるけれども、そんな時、親が生きているということはありがたいことなんだよ。お父さんもお母さんも死んでしまったあとだったらお前を助けてあげられないんだから。」
親はなんてありがたい存在だったのでしょう。
今度は私たち夫婦が親として娘のためにそういう存在になる番なのだと思いました。